拝啓
芥辺探偵事務所にアルバイトにはいる前の私。お元気ですか。
今、あなたはアルバイト先を探していますね? そのことについて、お知らせしたいことがあります。
悪いことはいいません。いまみているだろう芥辺探偵事務所の時給につられるのはやめてください。せっせと履歴書を書かないでください。
もっとほかに心身ともに健やかでいられる職場はいくらでもあります。落ち着いて、ほかのところを検討してください。
どうかどうか、考え直してください。
さもないと――
きりのいいところまでデータの打ち込みを終らせた佐隈は、キーボードから手を離し、息を吐きながら背筋を伸ばした。
いつもなら思いっきり背伸びでもするところだが、今日はそうもいかない。
「ベルゼブブさん……いつまでそうしているつもりですか」
自分の背中にべったりと張り付いたペンギン型悪魔――ベルゼブブに、佐隈はうんざりとした顔を隠すことなく尋ねた。蠅のくせに、木にはりつく真夏の蝉にでもなったつもりなのか、といいたくなったがとりあえずやめておいた。
一ヶ月ほど前、佐隈のことが好きだといった悪魔は、短い両手両足を器用に駆使して、ついでに翅も使って、佐隈の背から離れようとしない。グリモアではたきおとしてもいいが、暑苦しいだけで、アザゼルのようなセクハラをしてこないため、そこまでするのはさすがにちょっと……と、ついつい思ってしまう。
いや、キャミソール一枚の女の背に居座り続けるのも、それはそれでセクハラなのでは?
はた、とそう気づくものの、これくらいはどうってことないなぁと思う自分もいる。常にアザゼルのあからさまなおっさんくさいセクハラに晒され続けて、感覚が麻痺しているのかもしれない。
もうやだこんな日常。そう思いながら、ため息をつく。
「さくまさんが、一言いってくださればすむことです」
「ですからぁ~……」
はああ、とため息が深く重たいものになる。
こして何度も繰り返される会話は、不毛以外のなにものでもない。
「どうして、心を素直に言葉にすることをそんなに厭うのですか。悪魔である私にはわかりません」
そりゃあ、自分の欲望に素直に生きない悪魔など、悪魔じゃない。
「だからぁ~……」
叫びながら頭をかきむしりたくなるのをこらえ、佐隈はこめかみを揉み解した。
午後一番に召喚してからだ。召喚してからずっとこう。
イケニエのカレーを平らげて、満足そうに口元をぬぐいながらベルゼブブは言った。
『私のことが、好きだと言え』と。
一瞬、どこの嫉妬の悪魔ですかといいたくなった。だが、イケニエを平らげたあとの発言ということから考えるに、それはイケニエとしての要求ではなく。
「私のこと、お好きでしょう? だから、素直になれって言ってんだよ、このビチグソ女」
「……」
口汚い魔界の紳士は、ぐりぐりと佐隈の背へ、やわらかな頬を寄せてくる。
つまり、今回のことは。
ベルゼブブの告白からはじまった、この恋人同士なのかと疑問符がつくような、佐隈とベルゼブブのぬるい関係を背景にした、甘えであり、脅しでなのある。
はっきりさせなかった自分にも原因があるが、どうして急にこんなことを言い出したのやら。
そんな疑問も「悪魔の気まぐれですが何か問題でも?」と、一蹴されるに違いない。
振り回されているな、と思いつつ背中に手を回す。ベルゼブブの足を、むんずと掴んだ。
「もう! いい加減にしてください! 駄々っ子じゃあるまいし!」
「うっせーな! てめぇが言えばすぐすむだろうが!」
ぐぎぎぎ、と精一杯の力をこめて、引き剥がそうとする佐隈。引き剥がされまいとするベルゼブブ。
拮抗する力の崩れどころが見当たらず、ぎゃあぎゃあと言い合いながら、しばしそうしていると、事務所の扉が開いた。
「みんなのアイドル、アザゼルさんが帰ったでー! さくちゃぁぁん! おかえりのちゅー……って、なにやってんのキミら」
「うるせぇぞ、さっさとどけ。犬豚野郎」
「ふぐぅ!」
仕事に出ていたアザゼルと芥辺が帰ってきた。と思ったら、早速とに芥辺の長い足がアザゼルと蹴り飛ばし、哀れな悪魔は壁に激突して落ちた。ぐちゃり、と綺麗なピンクと赤黒いものが飛び散った。
「お、おかえりなさいぃぃぃ~……! ふぐぐぐ……!」
いつもの風景を眺めながら、佐隈は、なおもベルゼブブを引き剥がそうと奮闘し続ける。
「なにやってるの」
「ちょ、ちょっといろいろありまして……!」
「アクタベ氏には関わりのないことです! これは私とさくまさんの、勝負なのです!」
不思議そうに、というわけでもなく、淡々と事実を確認してくる芥辺に、佐隈とベルゼブブはそういった。
どちらも『好き』という一言を言うか否かで、こんな事態になっていることを知られたくはない。
なんでもないと両者ともに言い張ったものの、なにかあることくらい一目瞭然だ。しかし、佐隈が困っているだけで、本格的に嫌がっていない、身の危険にさらされていないと見て取ったのだろう芥辺は、あっさりと興味をなくした様子で、スーツの上着を脱ぐ。
「ふーん、まあ、どうでもいいけど。さくまさん、コーヒー」
「あ、はい。アイスでいいですよね?」
「うん」
所長用のデスクに向かう芥辺からの言葉に、佐隈はベルゼブブの足を放して、炊事場に向かう。途中、ぼろぼろになったアザゼルにもジュースだしますね、と声をかける。
情けない、哀れっぽい声がきこえたが、近寄ると碌なことにならないので、それは無視した。
「コーヒー、コーヒーっと……」
結局、ベルゼブブを張り付かせたまま、それぞれの飲み物を準備するべく、冷蔵庫をひらく。そして、佐隈は背中のベルゼブブをちらりと見遣った。
「ベルゼブブさんはどうしますか?」
「アイスティを所望します」
「じゃあ私もそうしようかな」
いったん冷蔵庫の扉をしめて、芥辺の分、アザゼルの分。そして自分とベルゼブブの分とグラスを用意していく。アイスコーヒーとジュースは既製品のペットボトルがあるからいいとして、アイスティはさすがにない。
ティーバッグの紅茶を濃い目に淹れて、氷入りのグラスに注げばいいかなと考えて、佐隈はお湯を沸かし始める。
お気に入りの紅茶のティーバッグを棚からだしつつ、背のベルゼブブに言う。
「ほら、そろそろ離れてくださいよ。いつまでもそうしてたら、できあがっても飲めないじゃないですか、ね?」
「言ってくださればすぐにでもそういたしますよ」
まだいうか。
かくり、と佐隈は肩を落とした。
二人分の紅茶を用意しながら、考える。これはどうあっても譲るつもりはないのだろう。このままでは、今日一日どころか明日になってもこのままでいそうだ。それはさすがに困る。
うう~ん……と、眉間に皺を寄せて佐隈は悩み。
きょろきょろ、とあたりを見回す。誰もいないのはわかっていても、だ。
だって恥ずかしい。こんなこと、まともにいったことなんてないのだ。
まったく、なんてことさせるんだろう……。
ぶつぶつと心の中で文句を垂れながら、どきどきとうるさい心臓をしかりつけ、唇を動かす。
「そ、その………す、き、です」
ぼそ、と聞こえるか聞こえないかの声で、囁く。
ベルゼブブから言われたときとはまた違う、甘い痛みが胸に走る。
ぎゅ、と捕まるベルゼブブの力が強くなった。
「もっとはっきりおっしゃい」
「……すきです」
「もう一度」
「すきです」
「もう一回」
「しつこいですね――好きですよ、ベルゼブブさん」
ゆっくり、かみ締めるように言う。ベルゼブブだけでなく、自分にも言い聞かせるように。
ようやく満足したのか、ベルゼブブが動いた。
二人分の熱を貯めていた背が、すうと軽く、涼しくなる。それだけ、熱を重ね共有していたと思うと、なんだか気恥ずかしい。
ブブブ、と翅を震わせて佐隈の目の前にきたベルゼブブが、眠たげな目を瞬かせる。
「さくまさん、あなたソロモンリングの扱いを、氏から習っておられましたね」
唐突な問いかけに、佐隈は眉を潜めた。
たしかに、数日前に習った。悪魔を制御できる術を知っておくにこしたことはないから、とのことで、毎日一定の練習もしている。
「あ、はい。私じゃあ、二十秒から三十秒っていうくらいですけど」
悪魔をソロモンリングに封じることも、悪魔をソロモンリングから解くことも、未熟な今の自分ではそれが限界だ。
「それで十分です」
「?」
頷くベルゼブブに対して、いいたいことがわからぬ佐隈は首をかしげた。
「さくまさん。この身にかかった忌々しい結界を、おときなさい」
「はあ?! そんなことしたら芥辺さんに怒られちゃいますよ!」
突然なにをいいだすのか!
ぎょ、と佐隈は目を見開いた。だが、とうのベルゼブブは涼しい顔をして、というか何を考えているかわからない顔で、ちょいちょいと手を振った。
「お茶をいれる合間を使って、私でちょっと練習していた、で済むことです。どうせあなたでは長くて三十秒程度なんですから、たいした問題にもなりません」
確かに実力不足はわかっているが、そういわれるとなんだか悔しい。佐隈が、苛立ち唇をわずかにかみしめると、はん、とベルゼブブが鼻で笑った。
「はやくなさい、この愚図が」
「ぐぐぐ……アクタベさんに怒られたら、グリモア漬の刑ですからね!」
開きなおった佐隈は、手を翳し、結果解除の言葉を紡いだ。
ふわりぐらり、ベルゼブブの愛くるしい姿が霞み、歪む。いずこからか煙が噴出し、その姿を覆い隠す。
「これでいいで……っ?!」
煙がおさまるのを待たず、大きな手がそれらを裂いてのびてくる。驚いて身を引く間もなく、佐隈の頬が両側から包み込まれた。
あっと小さく上がった悲鳴を飲み込むように、麗しい面が近づいて――ベルゼブブの唇が、佐隈の口に覆いかぶさった。有無をいわせぬ口付けに、体が跳ね上がる。
「ん、ん……!」
押しのけようとするが、ペンギン姿とは違って、まったくもって歯が立たない。あげく、佐隈の口が驚きに開いていたのをいいことに、ベルゼブブの熱く長い舌先が容易く侵入を果たし、口腔内をあますところなく舐めあげる。
「う、ふっ……」
角度をかえ、すべて奪い取るような口付けに、ぎゅっと目を閉じる。ぞわぞわと、全身の皮膚があわ立つ。
意識がかすみ、このまま永遠に貪られるのが続くのかと思った矢先、ちゅ、と音を立てて唇が離れていく。
ほ、と息をついて、ゆっくりと瞳をあけると、ベルゼブブの秀麗な顔がすぐそこにあった。
ベルゼブブは、ひどく満足そうに嗤っている。べろり、と赤い舌に唇をなめあげられて、鼻にかかった声が自然と漏れて恥ずかしい。
見下ろしてくる熱に浮かされた青い瞳に、くらりとする。容赦なく求めてくる悪魔の魔の手が、心地いいなんて。
佐隈が、痺れた思考に引きずられて、ゆっくりとその背に手を回そうとした瞬間。
ぽん、と音を立て、ベルゼブブは、ぷりちーな姿にもどった。
「ちっ……! ほんと使えねぇ女だな、てめぇはよ!」
「な……!」
甘い余韻に浸るまもなく罵られて、佐隈は頬を引きつらせた。まわしかけていた手を、慌てて引っ込める。
「あ! そ、そっちこそいきなりなんてことするんですか、ばっちいじゃないですかー!」
そういえば、とベルゼブブ曰く高尚な趣味のことを思い出し、顔を青くした佐隈は慌てて流しに駆け寄り、手近なコップに水を汲んで口を濯ぐ。
「ば、ばばば、ばっちいですってぇぇー?!」
その様子をみて、ベルゼブブが甲高い奇声をあげた。
「汚いもの食べた口で、なんてことするんですかっていってるんですよ!」
「くってねぇよ! てめーがそういうと思ってたからなァ、くってねぇよ!」
「?!」
心から驚いて息をのむと、それをみたベルゼブブがしたやったというような誇らしげな顔をする。対して、言われたことの意味がわからず、佐隈は固まった。
「毎日毎日、どんだけ我慢してると思ってんだよ、このクソ女がァァァ! こっちがこれほど譲歩してるっていうのに、てめぇは一言もいいくさらねえしよォ!」
「え? ……あ!」
そういうことか、と。佐隈は唐突に理解した。
ベルゼブブがあんなことをいいだしたのは、ストレスのせいなのだ。大好物を口にしないベルゼブブの、ストレスが引き起こした行動。
そういえば、ここ最近、ベルゼブブはあのにおいがしない。気づいていなかったけれど、今思い返せば、今日も確かにそうだ。消臭剤の出番がない。
結局、なにもかも自分が原因なのだと気づいて、佐隈は脱力して床に蹲りたくなった。
これまでの、いつものベルゼブブからは考えられない行動や言葉に、恥ずかしいやら恥ずかしいやら、恥ずかしいやらで、頬が熱い。
我慢が過ぎると、こんな行動にでられるのでは、この先、身が持たないような気がした。
「……うう~」
まだ重ねられた唇の感触が残ったまま、ふらふらと佐隈はヤカンに手を伸ばす。ちょうど、お湯が沸いたようだ。ティーバッグを放り込んだポットにお湯を注ぐ。ぺと、とまたベルゼブブが背にはりついてくる。
「私の愛の重さがわかりましたか」
「ええ、とっても。押しつぶされそうですよ」
「それはよかった。私の下で身動き取れなくなりなさい。しおらしく涙のひとつでも零してみせれば、永遠に可愛がってさしあげましょう」
「ぜーったい、お断りです!」
「つれないですね」
憑物が落ちたように上機嫌なベルゼブブと、いつもの調子で言葉を交わす。
立ち上がる濃い紅茶の香りを吸い込みながら、佐隈は肩の力を抜く。
ねえ、過去の私、と心中で囁く。
――さもないと。たちの悪い悪魔に魅入られるはめに、なるでしょう。
居丈高で高飛車で、可愛くて格好いいのに、口は驚くほどに悪くて、食するものの嗜好は最悪で理解できない、そんな悪魔らしい悪魔に、恋をすることになってしまうでしょう。
つまり、人間としての人生が終ります。
だから、どうか、考え直してください。
……でも、まあ、これはこれで悪くはないですけれど。
そう思ってしまう自分は末期だ。あとはただ、落ちていくしかできない、治らぬ病の末期患者。
そんなことを、情けないような諦めのような気分で考えながら、佐隈は細かな氷をグラスにいれて、そこへ淹れた紅茶を注ぎ込む。
たっぷりいれた氷が、みるみる小さくなっていく。これで事務所のソファに座った頃には、ちょうどよくなっているだろう。あわせて、芥辺とアザゼルのものも用意して、準備よし。
「ベルゼブブさん、その棚のお菓子持ってきてください。みんなでいただきましょう」
「魔界の貴族である私を使わせるとはいい度胸してますね、あなた。あとで黄金よこしなさい」
「重ねてお断り申し上げます」
「ケッ」
口ではなんだかんだいいながらも、ベルゼブブは素直に佐隈の背から離れ、言われたとおり依頼人のお土産を手にした。そんなベルゼブブと並び、炊事場の出口へ向かう。
ここをでれば、芥辺がいる。アザゼルがいる。二人きりの空間は、そこにない。
ああ、自分はそうとう、この恋に惑い、おかしくなっている。人間ではないものが、こんなにも愛おしい。
「ベルゼブブさん、ベルゼブブさん」
「?」
呼びかけに応えて振り返るベルゼブブに、佐隈は長い睫を伏せながら、そっと唇を寄せる。
上司や同僚のいる事務所の片隅で、陰に隠れ、忍んでこんなことをしている背徳感に酔いながら、悪魔使いは愛しい悪魔に、口付けをひとつ贈った。