「さくまさん。あなたを好きだといったら――どうしますか?」
赤い夕暮れの色に包まれた事務所で、窓からみえる平和そうな街並みを眺めながら、相手のほうを向くことなくベルゼブブは問うた。
今、依頼主からの急な呼び出しに応じたため、芥辺はいない。いつも鬱陶しいアザゼルは、仕事がないため召喚されていない。事務所には、ベルゼブブと佐隈だけ。本当に、二人きりだからこそ、言えた言葉。
気づけば育ち、もはや枯らすことができなくなったこの想いに対して、どんな答えが返されようとも、受け止める覚悟はできている。
馬鹿にされるか。冗談にされるか。気持ち悪がられるか。それとも――?
淡い期待を捨てきれず、ベルゼブブは、やや俯きながら応えを待つ。
まだ、佐隈の反応はない。
一分、二分と時間は過ぎていく。一秒重ねるごとに、ふつふつと身の底から湧き上がる苛立ちに、ぎりり、とベルゼブブは歯をかみ鳴らす。わずかに血の味が滲んだ。
いや、まだだ、まだ考える時間はあってしかるべき。魔界の紳士として、これくらいは待つべきだと、自分に言い聞かせる。
しかし、佐隈の反応はない。
たっぷり五分以上が経過して、ベルゼブブはとうとうきれた。自称紳士というわりに、非常に短気であるベルゼブブにしてみたら、よくもったほうだろう。
「てんめぇぇぇ! 無視してんじゃねぇよ!」
肩を震わせて、振り返る。それはもう勢いよく。自分の目玉が飛び出すのではないかというくらいに。
無視されるというのは想定外だった。佐隈ならば、絶対に何かしら返してくれると信じていた。繊細な悪魔心が傷ついた。どうしてくれる!
ピギャー! と奇声交じりに叫ぶと、その動きを目の端に捕えたらしい佐隈が、回転椅子を回してベルゼブブのほうを向いた。
ぴっ、と耳に入れていたイヤホンをとりながら、首をかしげる。
「はい? なんですか? よく聞こえませんでしたので、もう一回いいですか?」
「こ……こっの、ビチクソ女ァァァ!」
握りつぶされたような奇声をあげて、ベルゼブブは仰け反る。
どうやらタイミング悪く、イヤホンをしていた佐隈に話しかけてしまったせいで、聞こえていなかったらしい。
佐隈は悪くない。しかし、一世一代の問いかけを意識せずとも無にされて、ベルゼブブは怒り心頭である。
「てめーの空気の読めなさっぷりは異常だな、オイ?!」
「なんなんですか、もう……。いま、依頼者あての報告書を作ってるところなんですけど」
どうやら、先日盗聴した浮気調査の結果をまとめているらしい。だがそんなものより、こちらのほうがよほど大事だ。
羽をふるわせ、普段となんらかわりなくみえる佐隈のもとまで、ベルゼブブは素早く飛んだ。
視線の位置を合わせ、ぎりぎりと睨み付ける。さすがの佐隈も気後れしたように、顔を逸らし目線をさげた。
「お腹すいているなら、イケニエの残りのカレーがありますから、あたためて食べてください」
「! 、――そうではなくて!」
一瞬、カレーという言葉に反応しかけたが、ここで釣られてなるものかと、ベルゼブブは頭を振った。
「いいですか?! 耳の穴かっぽじってよーくお聞きなさい!」
「はいはい」
投げやりな態度でぞんざいに頷く佐隈に、手を振って指導する。
「『はい』は一回! どのような躾を受けてきたのですか、この庶民!」
「はい」
渋々とした様子だが、存外素直に頷き、顔をあげた佐隈の目の前で、襟を正しつつベルゼブブは一呼吸、二呼吸。
そして、決意をこめて口を開いた。
「てめーのことが、好きだっていってんだよ!!」
言い切って、ぜぇぜぇと肩で息をしながら考える。
このベルゼブブが人間の女相手に、しかもこんなに地味で、可愛げがなくて、特筆すべきことはカレー作りの腕が一級であるぐらいしかない女に、ここまで馬鹿正直な告白をするとは。
だが、今度こそは伝わっているはずだ。これで聞こえないとかいわれたら、佐隈の耳には本格的にやばいことになる。そうなったら病院に連れて行って、ミミクソのかけらもなくしてからその鼓膜を突き破る勢いで言ってやる!
反応を待つベルゼブブの喉が、緊張で鳴った。
だが。
「言ったらどうしますか? って、疑問系でいってませんでした?」
ぬけぬけとそんなことを、目の前の女は言ってのけた。
「!?!?!」
ガン、と芥辺に蹴られたり殴られたとき以上の衝撃が、ベルゼブブを襲った。広大な宇宙のただなかに放り出されたような、たとえようのない喪失感にただ身を委ねるしかできない。
何も考えられない数拍の後――
「聞こえてんじゃねーかァァァ!」
脳天を突き上げる激情に身を任せ、ベルゼブブは叫んだ。二度も恥ずかしいことを言わせられたという事実だけが、真っ白になった頭の中を行き来する。
そういえば、佐隈はひとつしかイヤホンを外していなかった。つまり、もう片方の耳はあいていたことになる。
「そうですねー。でも私、よく聞こえなかったといっただけで、聞こえてないとはいってませんけど」
しれっとそんなことを言った佐隈が、パソコンに向き直る。間髪いれず、キーボードの上を指が軽やかに舞う音が聞こえ出す。
え、あれ? 返事は……?
おろおろと、ベルゼブブは佐隈の周りをゆっくりと飛び回る。
何事もなかったかのように、打ち込み作業にもどってしまった横顔を盗み見る。とくになんの感情も浮かんでいない。
その拒絶するような態度に、胸の奥が痛んだ。期待の鼓動ではない悲しい鼓動は、心の悲鳴そのものだ。それでも、確かめられずにはいられない。
「あ、あの、ではなぜ、何も言ってはくれなかったのです……? やはり、その、」
悪魔では、だめということでしょうか。
言葉にはできなかった己の考えに、ベルゼブブの肩から力が抜ける。だらりと手が落ちた。
覚悟は決めている。もしこの言葉が受け入れてもらえないなら――悪魔らしく、ありとあらゆる手段を用いて、佐隈を手に入れる覚悟を。諦めるという選択肢は、端からない。最初に問いかけたのも、自分がとるべき行動を決めるためだ。
だが、できることなら、そうはしたくないとも、思っている。
ベルゼブブのそんな考えなど知らぬ佐隈が、ようやく唇を動かした。
「なんていうか……驚いちゃって」
ぽつり、手を休めることなく落とされた言葉に、ベルゼブブは首をかしげた。
「なにがです?」
「悪魔も、恋をするんだなぁ、って。そんなことを、いうんだなぁ、って」
ああ、とベルゼブブは吐息交じりに頷いた。
「悪魔だって、恋くらいしますよ」
ものしらずめ、と罵る。
「そうですか。でも、だけど、その相手が私だなんて、信じられないっていうか……嘘みたいで」
かわらず、カタカタとキーボードは歌い続ける。
「大体、ベルゼブブさんに好かれる理由が、見当たりません。心当たりがありません。何か企んでいるんでしょう? アクタベさんへの復讐とか?」
ふん、とベルゼブブは鼻を鳴らした。たがだか人間の女の分際で。このベルゼブブを、みくびってもらっては困る。
「私があなたを好きな理由? そんなもの、あなたにわかるはずもない。だってこれは、私の恋なのですから」
「っ、」
ここにきてようやく、佐隈の表情が揺らいだ。
そう、この気持ちがわかるわけなどない。佐隈はベルゼブブではない。それは絶対の、真実だ。悪魔と人間という種の問題以前の話。だから、何をいったところで、わかるわけがないのだ。この恋が、何でできているかなど、ベルゼブブだけがわかっていれば、それでいい。
こういう相手のことを考えないのは、やはり自分が悪魔だからだろう。
「つまり、さくまさんにとって私の言葉は、信じるに値しないということですかな?」
「……」
次々と投げかけられるベルゼブブの本気を込めた言葉におされたのか、佐隈の手が止まる。夕闇の色濃くなってきた事務所に、静寂が満ちる。
「よく、わかりません」
小さな手が、握り締められる。
「でも私、そんな風に言ってもらえたの、はじめてで、」
はく、と佐隈の唇が空気を食む。
「だから、その……」
ふわり、ベルゼブブはデスクに降り立った。そのまま、何か言いたげな、だけれどもどんな言葉にすればわからない様子の佐隈を、見上げる。
「うれしい、ですか?」
「!」
びく、と薄い肩が跳ねたのを、ベルゼブブは見逃さない。
それはこういうものなのだと正解を突きつけられて、大きく目を見開いた佐隈が、困ったような顔をする。いや、混乱しているのか。
「いくら疎いあなたでも、嬉しい、悲しい、嫌だという感情の区別くらい、つくでしょう?」
ね? と、努めて優しく問いかける。あれ? と首をかしげた佐隈が、自分の胸を押さえる。気づくまで、あと少し。
「ほら、いってごらんなさい。うれしい、と」
「う……うれ、しい……? です……?」
自分がもう、何を言っているのかよくわかっていない顔で、佐隈はベルゼブブの言葉をなぞった。ニィ、とベルゼブブは嗤う。
「よくできましたね、さくまさん」
一歩近づく。そうして、ベルゼブブは手を伸ばす。もう少しで、わずかに色づいた柔らかな佐隈の頬に触れられる、というところで。
勢いよく、佐隈が席を立った。
「ピギャッ?!」
それに押されて、ベルゼブブはころりとデスク上に転がった。
体を起すと、佐隈が傍らに置いてあったグリモアをひったくるように掴むのがみえた。と思ったら、そのまま、つかつかと炊事場へ足早に向かっていく。
「ど、どちらにいかれるのですか?! 逃げんな、ゴルァ!」
慌ててそのあとを追いかける。あと一歩、あと一歩で佐隈が落ちそうなのだ。この好機を、ものにせずしてなんとする。
「わー! もう、やだ! なんなのこれ! なに?! こないでくださいっ! 殺しますよ?!」
「ひっ、ちょ、グリモアはやめてっ!」
混乱し、小蠅を払い落とすように、ぶんぶんと振り回される分厚い本に、本能的な恐怖が走る。ベルゼブブは、急停止しながら思わず目を閉じ、ぎゅうと体を縮こまらせたが――衝撃は、こなかった。
「……?」
そろり、怯えながら瞼を持ち上げる。少しずつ開く視界に、佐隈の小さな背が映る。ベルゼブブのグリモアを胸に抱いて、立ち尽くしている。
そんな佐隈に、そろ、とベルゼブブは近づいた。
その震える肩に、ぺとりと張り付く。グリモアが、触れてくることはなかった。
「あなたのその反応、いいほうにしかとりませんよ、さくまさん。私、悪魔ですから」
すり、とベルゼブブは細い佐隈の体に、頬を摺り寄せる。うっとりとするようなぬくもりが、たまらなく心地よい。そうして、甘えるように肩を抱いていると、ややあって、佐隈が動いた。
「す、好きにしたら……いいじゃ、ない、です、か……」
息絶え絶えにそんなことをいいながら、ベルゼブブの手に、佐隈が細い指を乗せてくる。
その仕草が堪らなくて、ちらり、と背後から覗き見た佐隈は――頬は薔薇色、耳は紅色。眉間に皺を寄せて、やや潤んだ目元を厳しくしているけれど、それは何かをこらえるかのようで。
恥ずかしいのか。照れて、いるのか。
そのことに気づいたベルゼブブは「ピギャァ……」と薄く口を開いて、小さな悲鳴をあげた。ガタガタと、体が歓喜に慄き震える。
「キ……」
「え?」
ベルゼブブの反応がおかしいことに気づいたのか、佐隈が怪訝そうな顔で振り返る。そこに向かって、ベルゼブブは飛んだ。
「キスしましょう! つーか、させろや、このクソ処女ォ!」
「ぎゃあぁぁ!」
勢いよく顔に向かって覆いかぶさろうとするが、うまくグリモアでガードされてしまう。あげく胸に手を押し当てられて、引き剥がされる始末。服を掴まれているせいでどうにもできず、じたばたとベルゼブブはもがいた。
「てんめぇぇぇ! 離せ! オラァ!」
「離したらキスするんでしょう?!」
「このベルゼブブ様がテメェみてぇなクソブスにキスしてやるっつってんだろうがよォ! 拒否する権利があると思ってんのか?! むしろありがたがってすぐにさしだすのがこの世の道理!」
「何言ってるんですか、そんな自分勝手な道理がまかりとおるわけないでしょう?! そんなにキスしたいんですか?!」
「ったりめーだ、このビチグソ! かわいい顔しやがってふざけんな!」
「クチバシなんかでつつかれたら、唇破けますよ!」
「じゃあ、舌だせ、舌! ねっとり絡みとってやんよ!」
「いーやーでーすー! だいたいベルゼブブさん、昨日もアレ食べてたじゃないですか?!」
「今日は食ってねぇよ!」
「それでもいやー!」
じたばたじたばた、不毛ともいえるやりとりを繰り返し、お互い力が尽きかけた頃。
「……そんなに、はぁ……お嫌ですか……」
「……ぜぇ……はぁ……嫌っていうか……」
ぜーはー、と互いに荒い息をつきながら、ぎりぎりと睨み合う。
「嫌です」
きっぱり。
「テッメェ……二度重ねて拒否るとかどんだけだよ……!」
ベルゼブブは歯をむき出して唸る。いやまあ、こういう人間にしておくには惜しいくらいの容赦のなさもまた、好きな部分なのだが。
それはさておき、キスはしたい。
悪魔らしい率直な欲望に従い、怪獣映画で流れていてもおかしくない奇声をあげて、再びベルゼブブは手足をばたつかせた。
「私のことが好きなくせに! キスぐらいいいじゃありませんか!」
「ベルゼブブさんのほうが、私のことお好きなんでしょう?! 私まだなにもいってません!」
「うっせーブス! あんな反応しておいて、そんな言い訳通じるわけないだろうが!」
「そのブスにあんなに熱烈に告白したペンギンはどこのどなたですか!」
「ペンギンじゃねェェ! 高貴で気高いベルゼブブ様を馬鹿にしてんのかァァア!」
「ああもう!」
「っ!」
ピギャピギャと喚いていたところに、びしりとグリモアが突きつけられて、ベルゼブブは息を飲んだ。
「……それ以上何か言ったら殺します」
芥辺によく似た迫力をもってしてのドスの効いた言葉に、ベルゼブブはこくこくと頷くしかなかった。
佐隈が頷いて、ゆっくりと手を離す。ベルゼブブは、よろりと空中でふらついた。ようやく自由の身になったものの、ものすごくすっきりしない。
歯ぎしりしながら佐隈を睨み付けると、なにやら近くにあるものに手を伸ばしているのがみえた。ぺりぺりと、響く音。
「さくまさん? あなた、なにを……ふぐぅっ?!」
その手元を覗き込もうとした瞬間、ベルゼブブの口に何かが覆いかぶさった。
何が起きたのか理解するまえに、佐隈の顔が近づく。
目の前が真っ暗になると同時に、温かく柔らかなものが、ベルゼブブに触れた。びく、と体が固まる。動かなくなる。思考も同じ。
離れてほしくない柔らかさをもった熱が、すう、と離れていく。
「いまは、これで我慢してください」
透明な膜――いつも使っているラップフィルム越しに、ベルゼブブに口づけた佐隈が、明後日の方向をみながらぼそぼそと言う。その顔は、さきほどよりもずっと赤い。せわしなく頬にかかった髪を耳にかけながら、佐隈は炊事場を出ていく。ぱたぱたと、軽い足音が遠ざかっていく。
ああ、まったく。
処女のくせして――なんてことしやがる。
佐隈の姿が見えなくなって、なんとか意識を取り戻したベルゼブブは、してやられたと苦々しく思いながら、まだ自分の口元に張り付いたままのラップをゆっくりと剥がした。
じいっと眺めた後。それを、そっと上着の内ポケットにしまいこむ。ぽん、と胸をたたくと、充足感が体を満たした。宝物ができたようで、子供のように心が浮き立つ。
まあ、今日はこれくらいでよしとしましょうか。
そして、ゆっくりと一呼吸。
「さくまさん!」
力強く翅を動かし、佐隈を追いかける。
もう一度、やはりあなたが好きですと、伝えたくてたまらないこの気持ちを、届けるために。