雨の日のふたり

 ヒューバートは、玄関ホールへと続く階段半ばで、顔を強張らせた。
 いましがた賑やかに笑いあいながら帰ってきたふたつの影。
 うち一方、にこにこと笑っている女がどうしても自分より年上に思えず、ヒューバートは眉をひそめる。
 現実逃避したがって痛む頭を慰めるように、こめかみを揉んでみるがまったく効果はなかった。
 久しぶりの休暇で、ケリーの顔を見ようと訪れた故郷。一緒についてきてくれた恋人には感謝している。が、これはない。
 そんな彼女と並んで微笑んでいる少女も泥だらけ。これもない。
「なにをしてきたんですか、あなたたちは……」
 ゆっくりと階段を降りきって、彼女たちに近づく。
 兄であるアスベルの執務室にいこうとして、たまたま玄関先で出くわした光景は、なにをしてきたのか一目瞭然でわかるものだが、問わずにはいられない。
 疲れきった声に、けろりとした声が応える。
「泥遊びだよ、ヒューくん!」
「……」
 今まさに天より雨を降らせている分厚い雲も吹き飛ばせといわんばかりに、快活かつ明るい笑顔でそういってのける顔も身体も泥だらけのパスカルに、ヒューバートは重い溜息をついた。
「あのね、街の子たちと、遊んできたの」
 ふわ、とまさに天使の微笑みを浮かべるソフィ。身体は大きくなっても、中身はあまり変わっていないようで、それはそれでいいと思わないではないが……。ラント領主の養女となった今、そういうわけにもいかないだろう。
「ちょっといいですか、ソフィ――「きゃあああっ?! なに、どうしたのふたりとも!」
 ひとこと注意しようとしたヒューバートの呼びかけは、執務室からティーセットをお盆に乗せて出てきたシェリアによってかき消された。
 その悲鳴じみた声に、なんだなんだとアスベルまでもが姿をみせる。さすがに驚いたのか、ぎょっと空色の眼が見開かれた。
「うわっ、なんだその格好」
「あのね、アスベル、みんなと泥んこ遊びしてきたの!」
 輝くような天真爛漫な笑顔で、とてとてとソフィがアスベルに駆け寄る。
 そうすれば当然、ぼたぼたと落ちる泥。ヒューバートは頬を引き攣らせた。その反応はシェリアも同じ。
「ちょ、ちょっと待ってソフィ! うごいちゃだめよ!」
 手にしたティーセットを放り出すわけにもいかず、ばたばたとシェリアが炊事場に向かいながらまた叫ぶ。
 ぴたり、とその言葉を素直にきくソフィに、アスベルが近づいた。ソフィの全身を上から下に眺め、首筋に手を当てる。
「あ~、派手にやったな、ソフィ」
 呆れたような諦めたような、それでいて慈しむような瞳をして、アスベルが笑う。
「うん! とっても楽しかった」
「そうか」
 しょうがないな、といってのけるあたり、親馬鹿っぷり丸出しである。
 のほほんと二人がそんなやりとりをしているうちに、シェリアが手にタオルを抱えて戻ってくる。
 ずい、とソフィとパスカルにタオルを押し付ける。
「ほら、ひとまず泥が落ちないように拭いて。それからお風呂はいりなさい。わかった?」
「うん。わかった」
 至極もっともなシェリアの指示に、ソフィが素直に頷く。まさに母と子の姿である。
 一方。
「え~」
 髪と衣服を拭くソフィ傍らで、パスカルが露骨に顔をしかめた。風呂嫌いもここまでくると立派である。ぶーぶーと文句を言える立場と格好でもないだろうに。
「パスカル?!」
 案の定、シェリアの怒りを買ったらしく、ぎろりとすごい形相で睨まれて、ぴゃっとパスカルが身体を跳ねさせた。、
「おおっとぉ~! ……っ、ヒューくん?!」
「どこにいこうとしてるんですか」
 自分が不利ということを察して逃げ出そうとしたパスカルの首根っこを、むんずと捕まえる。
 じたばたと暴れるたびに泥が落ちる。飛ぶ。
 ひぃっと小さな悲鳴を漏らすシェリアが、なんだか可哀想になってきた。
 ここはひとつ、加勢するしかない。自分の恋人が泥だらけでいるのを看過するわけにもいかない。
 ぎりりとシェリアに負けず劣らず、ヒューバートも眦を吊り上げていう。
「はやくお風呂にはいってください! まったく、いい歳してなにやってるんですか!」
「うえぇぇ、やだぁぁ!」
「ここまで汚くなっておいて、嫌だといえるあなたの神経がわかりませんよ、まったく!」
 喚き声もなんのその、ずるずると半ば引きずるようにして連行していく。
 水を嫌がる猫のようにぐずるパスカルを、浴場へと力ずくで放り込む。
 一息ついて自分をみれば、ヒューバートの服も泥に塗れていた。だが、いたしかたない。尊い犠牲である。
 ずれた眼鏡を直そうとして、その指先が汚れていることに気づいたヒューバートは、諦めて溜息をついた。
「シェリア、大変でしょうが、あとを頼みます」
「ええ、まかせてちょうだい」
 死地へ向かう戦友同士のように、きりりと視線を交わし頷きあう。
 凛と前だけをみて浴場へと消えていくシェリアの背を、なぜか尊いものをみるような心地で見送る。
 閉じられた扉の向こうからシェリアの悲鳴とも怒号ともつかぬ声と、パスカルの嫌々という叫びが響いてくる。
 ヒューバートとアスベルは、疲れた様子で顔を見合わせ、同時に肩を落とした。

 

 手を洗い、汚れた衣服を着替え、メイドに洗濯を頼み――ヒューバートは自室で、一息ついていた。
 かつて、アスベルと共用であった子供部屋だが、アスベルとシェリアが結婚して夫婦の部屋が別のところにできたため、実質一人部屋だ。とはいえ、部屋の片隅には、まだアスベルの私物があり、一体いつ整理されるのか、はなはだ疑問である。
 ヒューバートとしては、ストラタのオズウェル家に身を置くものである以上、いつまでもラント領主邸に自室があるのはどうかと思うが、思い出を大切にしようとしてくれているアスベルたちの心遣いは痛いほどわかるので、黙って使わせてもらっている。
 いずれ、アスベルとシェリアに子ができたなら、この部屋を譲り渡せばいい。それまでは、厚意に甘えさせてもらうつもりでいる。
 見回す部屋の窓には、降りしきる雨粒がいくつもの筋を描いている。
 子供の頃、雨は嫌いではなかった。アスベルと外へ遊びにいけないのは残念だったが、その分、読書に勤しむことができた。
 そして、ストラタに養子にだされてからは、その恵みがいかに尊いものであるかを思い知った。
 しかし、乾燥した地帯で長く過ごしたせいか、湿気は苦手になってしまっている。
 はやく晴れないだろうか、と思いを馳せたとき。
 がちゃり、とノックもなしに扉がひらいた。
「は~……疲れたよ~」
 その向こうから、覇気なく現れたのはパスカルだった。シェリアに貸してもらったのか、珍しく白いワンピース姿である。
 いつもと違う可愛らしい姿に、恋人としてはときめいてもいいところだが、頭にはタオルをひっかけており、項垂れた様はちょっと中年くさいのでそうでもなかった。
 やや残念ではあるが、それでも嫌いという感情は塵ほども思い浮かばないくらい、ヒューバートはパスカルが好きなのだ。
 事情を知らなければ同情したくなるほどの疲れきった様子に、苦笑が浮かぶくらいである。
 そんなパスカルは、後ろ手に扉を閉めると、よろよろと室内を進んでくる。
 遊んで泥だらけになるのは疲れないくせに、たった数十分の入浴でそこまで消耗するとは。
 そのまま力なく、ヒューバートの寝台の端に腰掛けたパスカルが、ひらひらと手を振ってくる。
「ヒューく~ん」
「なんですか」
 なんとなく、パスカルがいいたいことはわかるのだが、それにすぐ応えるのも癪である。
「ヒューく~ん」
「……」
 黙っているとまた名を呼ばれる。
「ヒューく~ん」
「しょうがないひとですね……」
 三度呼ばれて応えないわけにはいかない。溜息をついて、ヒューバートは腰かけていた椅子から立ち上がった。
 ぐったりとして、甘えるように名を呼び続けたパスカルの前へと立ち、少し屈みつつ手を伸ばす。
 頭にかぶせられたままのタオルをとって、髪に含まれた水気を優しく拭き取っていく。
 してほしかったことをしてもらえたパスカルは、満足したように黙っておとなしくなった。
 目を閉じてなすがままになっている姿は、まるで犬か猫のよう。
 手を動かしながらヒューバートは口をひらく。
「なぜあのようなことを?」
「泥んこ遊びのこと?」
「ええ。たしか、道具屋に花の種をとりにいっていたのでは?」
 花好きのソフィと仲のよい道具屋の店主は、珍しい花の種などをみかけるとわざわざ取り置いてくれたり、取り寄せたりしてくれるようになった。
 連絡を受けたソフィが待ちきれないとばかりにそわそわしていたので、パスカルが声をかけて仲良く傘をさして出かけていったはずなのに。
「ちゃんと花の種はもらったよ~。それでね、帰りに街の子供達が楽しそうに遊んでたからさ、仲間にいれてもらったんだよ。ソフィ、やったことないっていうし」
「……」
 ということは、ラントの町中で同じような状況になっているだろうなとヒューバートは遠い目をして考える。母親たちの阿鼻叫喚の幻聴が、耳に響いた気がした。
 ラントの各家庭には大変申し訳ない気分である。決してヒューバートが悪いわけではないのに、である。
 そんなヒューバートの心労などまったく思い至らぬ様子で、パスカルが笑う。
「雨の日ってほんと楽しいよね~!」
「というか、パスカルさんが楽しめない日ってあるのですか?」
「んー、ないかも!」
 けらけらとパスカルが笑う。
 明るく賑やかで気ままで自由で。それでいて、人をさりげなく気遣い、明るい雰囲気をもたらしてくれるパスカルは、どんなことがあってもどんなときであっても、今その瞬間を楽しめる性格だ。
 でもそんなパスカルも、ふいに立ち止まってしまうときがあることを、ヒューバートは知っている。かつて、フェンデルの研究施設からの帰り道で、ようやく辿りついたテロスアステュで、パスカルは静かに涙を零していた。
 何も悩みがないようにみえる反面、儚く脆い面を持ち合わせている。
 そんなパスカルだからこそ、ヒューバートは愛しくおもう。
 できることなら、その部分を支えられる唯一の存在となりたい。恋人という立場は確立したものの、その願いを成し遂げる方法はひとつしかない。
 そろそろタイミング的にも問題はないと思う。兄であるアスベルは結婚し、領主として日々頑張っているし、ヒューバート自身も充実した日を過ごし、パスカルの大紅蓮石の研究もおおむねの目途がたったという。
 あとはいつ、一歩踏み出すかだけ。しかし、それがなかなか難しい。
 うーん、と頭を悩ませていると。
「――あたしさ」
 ふいに、パスカルが囁くような小さな声でいう。
「お風呂はあんまり好きじゃないけど」
 あんまりというレベルじゃないような気がしたが、とりあえずヒューバートは黙っておく。
「ヒューくんに頭を拭いてもらうのは好きだよ。とってもきもちいい」
 えへへ、とパスカルが小さく笑う。
 口元をが緩みそうになるのを、ヒューバートは堪える。
 ゆっくりとタオルを外す。もう終わり? というように、怪訝そうに見上げてくるパスカルにいう。
「ちゃんとお風呂にはいってくださるなら、いつでも拭いてあげますよ」
 はい、おしまいです、とタオルを細い首にかけるようにして返せば、不満げに唇が尖った。
「えー、だってヒューくんいつもいないじゃん。だからはいらないよ!」
 なぜそうなる。
「お風呂にはいらない理由にぼくを使わないでください!」
 とんでもない言い訳に、ヒューバートは思わず叫んだ。
 嬉しいことをいってくれたと思ったらこれである。
 そんなことを、うっかりフーリエあたりにでも喋られたら、いらぬ恨みをかいそうだ。
 いい考えだと思ったのに……と、ぶつぶついっているパスカルに、やれやれと肩を竦め――ふと、思う。
 ああ、でもそういってくれるなら、少し試してみてもいいだろうか?
 じっと大きな琥珀色の瞳をみつめる。浅い呼吸を繰り返し、意を決する。

「いつもぼくに拭いてほしいなら―― 一緒に住みますか?」

 ぱちくり、とパスカルが目を瞬かせた。
「……」
 精一杯の探りに、まず返ってきたのは沈黙だった。真っ直ぐな視線が、揺らいで斜めに落ちる。
 タオルの端で口元を隠すようにしたパスカルが、「ん~……」なんともいえない声を漏らす。
 だがやがて、にんまりと猫のように瞳が細くなった。
「それ、いいかもね~」
 にひひ、とパスカルが悪戯っ子のように笑う。
「いつ一緒に住んでくれるの?」
「っ、」
 もう片方の手を伸ばし、つんと頬を突いてくる。
 半ば呆然としてたヒューバートは、はっと息を飲んで、わずかに眉根を寄せた。
 そうされたのが嫌なのではなく。
「パスカルさん……」
 自分から言い出したことなのに、心揺さぶる返答にヒューバートは頬を染める。
 もしかして、これは絶好の機会なのではなかろうか。いうべきかいわざるべきか。いやでも、何の準備も整っていない。指輪もないし、雰囲気もない。
 どうするどうする。
 ううむ、と再び頭を悩ませるヒューバートをみて、パスカルが無邪気に笑いながら、タオルをヒューバートの頭にひっかけてきた。
 なにを、と問う前に、その両端が引かれる。もともと重心を前に傾けていたせいで、ヒューバートは当然バランスを崩した。
「うわ、っと……、ん、む」
 それでもパスカルを押しつぶさないようにと、腹に力をこめたところで。
「んー」
 伸び上がるようにして近づく艶めいたパスカルの唇が、ヒューバートに触れた。
 次の瞬間、ヒューバートは細い身体に腕を絡めて引き寄せていた。無意識というか、本能的な動きだった。
 それに応えるように、細い腕がヒューバートの顔の両側を通って伸びて、そうして絡んでくる。
 その仕草に、ヒューバートはひどく愛しい想いを抱きながら、パスカルの小さな頭を手を添えて支える。
 角度を変えて幾度か結び合った後。
「ぷはっ」
 名残惜しく唇を離せば、にんまりと笑うパスカルが大きく息をつき、甘えるように頬を寄せてくる。
「でも、もーちょっと待っててね」
 重ねた頬を、うりうりと擦りあわせながら言う。
「今の研究が終わったら――、あ、でも、あの研究もあるなあ……、あ! アンマルチア族のルーツについてもまとめないといけないや。そういえば、おねえちゃんの研究も手伝うって約束してたっけ!」
 いろいろと思い出したようで、ぱっとヒューバートから離れたパスカルが、うっかりしてた~と、けらけら笑う。
「……」
 恐らく、大紅蓮石の研究が終わったら一緒に暮らそうね、とでもいおうとしていたのだろう。
 しかし、研究に生涯を捧げるアンマルチア族でも天才と謳われるパスカルには、まだまだやりたいこと、やらねばならないことがあるらしい。
 これではいつになったら、アスベルとシェリアのように仲睦まじく暮らせるようになるのかわかったものではない。
 とはいえ、自由に生きてこそ輝くのがパスカルの魅力。それをもっとも愛するヒューバートが、潰すわけにもいかない。
 一体どうしたら、と遠い目をしたところで、ちゅっと頬に口づけられた。
「う、わ……パスカルさ、」
「さっきキスしたのにへんなヒューくん」
 不意打ちを食らわせたパスカルが、たかだか頬へのキスに驚くヒューバートを笑う。
 それもそうなので、ついつい初心な反応をしてしまったことを恥じ、ヒューバートは顔を赤くした。
「いつか一緒に住もうね、ヒューくん。そしたら、髪拭いてくれる?」
 きらきらと、期待のこもった瞳を向けられて、ヒューバートは小さく噴出した。
「それをパスカルさんが望むなら、毎日でも」
 いつになるのかわからないと絶望しかけていたけれど、パスカルがそういってくれるなら、いつまでだって待てそうだ。
「うう~ん、毎日お風呂はいるの? 一週間に一回くらいでいいじゃん」
「駄目です」
「ぶー」
 むくれるパスカルを、ヒューバートは笑いながら抱きしめなおす。
 いつかの日、この人と暮らすようになったなら、きっと退屈とは無縁の生活が始まるのだろう。
 楽しみで楽しみで仕方がないと伝えたくて。
 いまだに風呂のことで悩むパスカルを、ヒューバートは優しく寝台へと押し倒した。
 雨はまだ、優しく降り続いている。