幸せはいつだって

 むう、とノーラは眉根を寄せた。
 己が工房の本棚を思い出しながら睨み付けているのは、これまた本棚である。
 規模はわざわざ比べることもないくらい、こちらのほうが大きい。そこに、隅から隅まで色とりどりの背表紙が寄り添いあい、手にする人を待っている。
 視線を走らせていく。
 これはもう持っている。これはまだ持っていない。欲しい。きっと、工房で引き受ける仕事の役に立つだろう。
 とはいえ、本とは往々にして高価なもの。あれもこれもと目につくものを手に入れられるわけがない。
 さて。どれを選ぼう?
 ノーラが、次は財布の中身を思い浮かべたとき。
「おーい、まだかぁ?」
 こちらの悩みなど知ったことではないというような、覇気の足りない声がかけられた。耳に心地よい音程なのに、口調が悪くて損をしていると思う、よく知った男の声。
「今来たばっかりでしょ! もうちょっと待ってて!」
 ぎりっと眦を吊り上げて睨み付ければ、男―ユカは肩を竦めた。
 へーへー、と至極かったるそうに投げやりな返事をし、商品棚に目をやるユカの背に、ノーラはべっと舌をだした。
 ユカがいると値切ってくれるからありがたいのだが、いかんせん、飽きやすくて困る。
 おとなしくなったことを確認して、ノーラは物色を再開する。目の前には、今週はいったばかりだという本が並んでいる。
 霧の森に居をかまえ、工房をはじめてから様々なことを学んだ。手助けしてくれた人たちから受け継いだ知識もあるが、こうした本から得る知識も多い。
 テンペリナの雑貨屋にもときおり入荷はあるが、やはり交易の要所であるイサルミィのほうに品揃えの軍配はあがる。
 この商工会議所に併設された雑貨屋の本棚は、誰がしているのか、とても綺麗に分類されていてみやすくなっている。
 キトあたりの指導だろうか。
 そんなことを考えつつ、ノーラは目についたものの中から、今日買うべきものを絞り込むため、念入りに背表紙を確認していく。
 家具の作り方。薬の作り方。武器の作り方。防具の作り方。料理の作り方。裁縫の手ほどき。一般家庭のお父さんやお母さんが手を出せそうなものから、職人向けのものまで多種多様だ。
 その中に、なんだかおかしいと感じるものがひとつ。ノーラの意識を、強く惹く。だって、それがここにあることが、なんだか場違いだ。
「あれれ?」
 首をひねり、手に取ろうと指をのばしかける。と。
 もう我慢できなくなったのか、すぐ後ろに大きな気配。首をひねるようにして上を向けば、面倒くさそうな様子を隠しもしないユカが立っていた。
「おい、ノーラー、まーだーかー」
 ばふ、と覆いかぶさるように後ろから抱きしめられる。頭の上に、男の顎がのせられた。
「はいはい、わかったわかった。キリルさんところでジャーキー買ってきていいから。おなか壊すとダメだから、一袋までだよ?」
 おやつのひとつでも与えなければ納得しないかと思っての提案だったが、ノーラの言いぐさがユカの癇に障ったらしい。ちゃんとしていれば、それなりに色男といってもいい顔が、歪んだ。
「お前はオレのかあちゃんか! っつーか、なにみてんだ?」
「えーっとね、あれとりたいの」
 何かを察してくれたユカがわかるように、ノーラは本棚上部の隅を指で示した。分厚くはない、だが、しっかりとした造りのそれは、青い背表紙をみせている。
「これか」
 ノーラが背伸びをしてもなかなか届きそうにない位置にあるそれを、長い腕を伸ばしたユカが、ひょいと取り出す。
「ほれ」
「ありがと」
 なんなく目的ものものを手にし、あっさりと渡してくれたユカに礼を言いながら、表紙を確かめる。
 そこには幼い男の子と女の子が鳥籠をひとつもった姿が描かれている。上流階級向けにでも作られたのか、美しい表紙は丁寧な装丁が施され、押された金字が『幸せの青い鳥』とその題名を綴っていた。
「やっぱりこの絵本! わぁ、懐かしいなぁ!」
「そんなもん、何の役に立つんだよ」
「仕事には役にはたたないかもだけど……あたし、このお話好きなんだ」
 よく、おばあちゃんが寝る間に読み聞かせてくれていた本。そのときのものではもちろんないけれど、とても懐かしい気がした。
「ふ~ん。なあ、それよか腹減らねぇ?」
 だが、ユカはあまり興味がないらしい。ぐう、と子供のようにお腹を鳴らせて、どこかに飯を食いに行こうぜとせがんでくる。
 わかったから、とその願いをいなしながら、ノーラは悩んだ。この絵本を買うか、否か。
 幸いにも、アルトに頼まれていた品を届けたことで、懐は潤っている。せっかく頑張ったんだし、これくらい、いいんじゃない? 今回は荷物もちだっているんだし?
 よし、とノーラは頷いた。
「すみません、これください!」
 悩むこと数秒。わりとあっさり購入の決意を固めたノーラは、カウンター奥にいるキリルに向かって手を振った。

 

 

 注文があったから取り寄せたけれど、結局依頼主のもとへといくことがなかった忘れられた絵本――昼間に、キリルから言われたことを思い出しながら、ノーラは手元の絵本を見下ろした。
 どこの誰がこの綺麗な絵本を欲し、でもどうして手にするまでに至らなかったのか。
 そのあたりはキリルは教えてくれなかったけれど……。でもまあ、気にすることでもない。どんな経緯があったにしろ、この絵本はノーラの手に渡る運命だったのだ。
 小さく笑って表紙に手をかけたとき。
 滞在者の意向を確認するノックもなく。部屋の扉が開いた。
 いくら、イサルミィ内でも治安のよいところでとった宿とはいえ、不審者が押し入ってくるとも限らない。だが、鋭く視線を投げかけたものの、それは杞憂に終わった。
「お? まだ寝てなかったのか」
「おかえりなさーい」
 ゆっくりと部屋にはいってきたのは、ユカだ。
 イサルミィで知り合ったという、骨董品屋を営む人物のもとへいってくると言い残して出て行ったので、てっきりもっと遅くなるかと思っていたが、そうでもなかったようだ。
 ユカはドアの鍵をきちんとかけると、ノーラのもとへとやってきて、その手元を覗き込んできた。
 ふわり、花の香りがつけられた酒の匂いがノーラの鼻腔をくすぐる。どうやら、酔っ払うほどではないが、ユカは酒を飲んできたらしい。
「なにみてんだ――ああ、昼間の絵本か」
「そうだよ。ちょっと読んでみてもいいかなって」
 今宵はイサルミィで一泊して、明日の朝テンペリナに向かって出立する手はずだ。身体を休めておくべきだが、少しの時間を絵本に割いたところで問題はない。
 そういえば、以前はこうして一泊する場合には、別々の部屋をとっていたのだが――恋人同士になってからはいつしかそれもやめていた。
 ユカと行動を共にするようになったころは、こんな関係になるなんて思ってもなかったなぁ、とノーラは小さく苦笑する。
「なんだ? 変な顔しやがって」
「変で悪かったわね」
 ノーラが腰掛けている寝台にユカが座る。沈み込む音と、さきほどまでなかった熱を感じる。
「……『幸せの青い鳥』ねぇ」
 どこか呆れを滲ませ、皮肉気に口の端を歪めるユカに、ノーラは首を傾けた。
「ユカは読んだことないの?」
「まあー、人並みには知ってるけどよ。そういうのよりか、古文書のほうが面白ぇと思ってたガキだったからな」
「あは、ユカってば子供のころからそうだったの?」
 興味をひく文献が手に入ったら、朝まで読みふけっていることがあるくらいだ。しかし、それが幼子の頃からとなると、笑うしかない。むしろ、空恐ろしいかも?
「難解なものなんかはさすがに無理だったがな。伝承とか、伝説とかそういう類のモンはよく読んだもんだ」
「そっか……。そういうのを信じて、遺跡発掘を成し遂げた人もいるって、前にいってたもんね。すごいよね」
 ふむふむと頷くと、自分のことでもないくせにユカがどこか嬉しそうな瞳をみせる。やはり、ユカは根っからのトレジャーハンターだ。
 片田舎の酒場の片隅で、自堕落にまったくなんの目的もなく腐っていく人生なんて、とんでもない。ユカはやはり、お宝を目指して目を輝かせているほうが断然いい。素敵だ。つけあがるから、いってあげないけど。
 ノーラは、あまえるようにユカにちょこんと寄り添った。
「ね、ユカ」
「?」
 珍しくノーラのほうから近づいてきたことに怪訝そうにユカが眉を動かす。にっこり、とノーラは我ながらわざとらしいだろうというくらいの満面の笑みを向けた。
「これ、読んで!」
 そうして、ずい、と絵本を押し付けると、一瞬だけ「は?」という顔をしたユカだったが――すぐに笑った。からかいを多分に含んだその表情を、ノーラはまっすぐ見つめかえす。
 ユカがいわんとしているところはわかる。だけど、なんだかそうしてほしい気分になったのだから仕方がない。
「なんだぁ? おこちゃまは寝物語に絵本でも読んでもらいたいのか、あん? お願いしますっていったら考えてやらんでも――「お願いします!」
 すぱっとユカのからかいを遮って、いわれたとおりの言葉を口にする。それまで滑らかに稼働していた機械が一瞬にして錆びついたように、ユカの動きがとまった。
「ありがとうユカ! 読んでくれるんだね!」
「……ちっ」
 男に二言はないよね! と瞳に力をこめて、にーっこりと笑顔を重ねれば、ユカが苦々しそうに顔をしかめた。してやられた、という感じだ。
 ふふん、とノーラは鼻を鳴らした。どうせそういう言い方をすれば、意地になって断るんだろうと思ったんだろうが、甘い。甘い! 長い付き合いを経た今、天邪鬼なユカのことなんて、もうお見通しだ!
 ぶつぶつといいながら、ユカが本をひったくっていく。大きな手が、やや乱雑に表紙をひらいた。
「なんでオレ様がこんな絵本なんぞ読まにゃならんのだ」
「だって、ユカっていい声してるじゃない」
 ノーラが本心を告げると、へぇ、とユカが意味ありげに笑った。どこかにやけている。もしかしたら褒められて嬉しいのかもしれない。
「なんだ? ノーラはオレ様の声も好きか、ん?」
「そのふざけた感じさえなければなおいいんだけどね」
 もう一度本心を吐露すると、むにっと頬がつままれた。結構な力をこめられて、ノーラは逃れようと思わず身をよじった。
「いひゃい! いひゃいよ~」
「ふざけんなコラ。読むのやめるぞ、コラ。ったく……えーと、なになに――」
 先ほどまで捕まれた頬が、一転して優しく撫でられる。
 この強弱がほんとうにうまいなぁ、と思いながら、ノーラは読み上げられていく文字を一緒においかけるべく、もう少しだけ、ユカに近づく。
 物語の内容は、誰でも知っているだろう。有名なお話なのだから。

 とある国の、とある村。とある夜。
 木こりの子である兄と妹のもとに、年老いた魔法使いがやってくる。
 娘の病を癒すため、青い鳥を探してほしいと頼まれて、二人はさまざまな国に旅立つ。
 だけれど、幸せをもたらす青い鳥はなかなかみつからない。
 ようやくみつけたと思っても、その国から一歩でもでれば、青い鳥は青い鳥ではなくなってしまった。
 どこにいっても、どこを探しても、ほんとうの青い鳥はみつからない。
 途方に暮れた二人だったが、気が付けば朝。
 母におこされて、すべては夢の中のことだったのかと思ったけれど、我が家の鳥籠のなかに、二人は青い鳥をみつける。
 あらゆる国にいっても手に入れることのできなかった青い鳥――すなわち幸せとは、すぐそこにあったのだ。

「めでたしめでたし――ってか」
「……ユカ、上手だね……」
 抑揚、感情をたっぷりこめて絵本を読み上げたユカに、ノーラは素直に感心した。
 まるでそういう職業の人のようだった。詩あたりを朗読させたらさぞかし素敵だろうと思わざるを得ない。本人は嫌がるかもしれないが。
 そんなことを考えながらみあげたユカは、怪訝そうな顔をしていた。なにか、納得いかない、といった様子だ。
「なあこれ、こんな終わりだったか?」
「え、こういう終わりでしょ?」
 兄と妹の旅の果て、帰り着いた家にこそ、青い鳥はいた。身近な幸福にはなかなか気づきにくいものだという教えで締めくくられる、そんな終わりしか、ノーラは知らない。
 ユカは首をひねりながら顎を撫でている。
「最後には、家の青い鳥が逃げちまったーっじゃなかったか?」
「えー、そんなせつない絵本だったっけ?」
 うーん、と二人で頭の上に疑問符を浮かべる。
 絵本は時代、作られた場所、国でさまざまな解釈が加えられるものだ。もしかしたら、ユカの故郷ではそういう結末のものが読まれていたのかもしれない。
 早々に考えることをやめたらしく、ユカはベッドサイドの小さなテーブルに、絵本を置いた。
「ま、別にどっちでもかまいやしねぇさ。オレ様には関係ねぇし。それにしても、なかなか世知辛い教えの本だよな。夢を追いかけて足元みえなくなってるやつへの警告としか思えねぇ」
「読み終わってすぐにそういう現実直視させるようなこといわないでよ。この絵本は、身近な幸せを忘れないで、ちゃんとみつけてね、っていってるんでしょ?」
「だがオレのいってることも事実だろ?」
「……そうだけど」
 どうしてこう、世の中を斜めにみるのだろう、この男は。やれやれとノーラは肩を竦めて、ユカの瞳を伺う。
 いつもは気だるげでやる気なさそうな目が、珍しく憂いを帯びている。遠い過去を見つめている。何を思い出しているのか。
「ほんと、耳に痛てぇ話だよなぁ……」
 ユカの過去を知るノーラには、想像することは容易だった。かつての宝を、かつての仲間を、かつての裏切られた信頼を。様々な国を彷徨いながら、それでも『本物』を得られない兄妹の旅路に、重ねてしまったのだろうか?
「……」
 よしよし、と言葉をかけることなく耳あたりをくすぐるように撫でてやると、ユカが一瞬だけ目を丸くして、笑った。
「馬鹿。本当に痛いわけじゃねぇよ」
「わかってるよ、でも……」
 ひどく優しい『馬鹿』の音色に目を細めつつ、ノーラは手を動かし続ける。
 信じていたたくさんのものに、裏切られたあなただから。そう言葉にはせず、ゆっくりと手を滑らせる。夜に馴染むその黒髪は、するするとノーラの指の間を滑っていった。
 諌めるわけでもなく、怒るでもなく、憤るでもなく。ユカはしばしノーラの手を受け入れたあと、同じようにノーラの髪を撫でてくれた。
 大きな手に頬を寄せると、もうひとつの頬に小さな口づけが落ちてくる。その仕草は、この男の普段からは考えられなくくらいに優しい。それは、ノーラだけが知っていること。
「これで満足しただろ? そろそろ寝ようぜ」
 それ以上のことを遮るように立ち上がり、睡眠のために服を脱ぎ始めるユカの背をみつめながら、ノーラはいう。
「あのね、ユカの幸せも、すぐそこにあるよ、きっと。ちょっとだけ、わかりにくいかもしれないけど」
 シャツ一枚になったユカが、背を向けたまま、それに応える。この位置からはみえないけれど、微かに笑ったような気がした。
「もうみつけてるからいいんだよ」
 おや、とノーラは目を瞬かせる。ユカがそういうのなら、よけいな心配だったのかもしれない。
 ノーラは自分の寝台へと潜り込み、掛布を引きあげながら、尋ねる。
「もしかして、ジャーキーの美味しい店でもあった? それともいいお酒でも手に入った? あ、骨董品屋さんでいいことあった?」
「あほ、そういうことじゃねえよ。さっさと寝ろ」
 呆れかえったユカの声とともに息が吐かれて、ランプの明かりが消された。
 小さな部屋はあっという間に夜の色に沈む。明るさになれていたせいで、なにもみえない。
 こちらに了解をとることなくそんなことをされて、ノーラは眉を潜めた。もっとおしゃべりさせてくれてもいいのに。
「なによもう。ひとがせっかく――うわ!」
 もうユカのことなど知ったことか。おとなしく寝よう。そう思っていたら、大きな身体が、ノーラのベッドへと当たり前のようにはいってきた。ぎし、とベッドが男の重みを受けて鳴く。
「ちょっと、ユカのベッドはこっちじゃないでしょ!」
「おい、恋人にたいしてそれはあんまりだろうが」
 抗議したものの、ユカは出ていかない。離れる意思などまったくないとでもいうように、ぎゅうと抱き寄せられて身動きできなくなる。これではどちらのほうが子供なのだか。
「……しないよ?」
「させてくれともいってねーだろうが」
 念のため、恥ずかしさを堪えつつも先手をうつ。
「明日は早く宿を出るんだろ、今から疲れてどうするんだよ」
 どうやら、ノーラを抱きたい、というわけではないようだ。余計な気を回して、恥ずかしい思いをしてしまった。頬に熱をともらせながら、ノーラはため息をつく。単純に添い寝を求めらているのだと理解した。
「……もー、しょうがないんだから」
 あきらめたノーラは、ユカの広い背を抱きしめる。よく知っている体温が、あっという間に肌になじんでいくのが、心地よい。
 おやすみ、とでもいうように額に口付けられて、くすぐったい。首をすくめて笑うと、なにも見えない視界の向こうでユカも小さく笑っている気がした。
 おかえしに、あてずっぽうでキスを贈る。どうやら鼻の頭あたりにそれはたどり着いたようだ。
「おやすみ、ユカ。はやく、帰ろうね」
 ユカが、小さく頷いてくれる。それを感じとりながら、ノーラは瞳を閉じる。
 濃い闇の中を、青い軌跡が流れ星のように駆け抜けていく。その行き先は、決まっている。自分たちが出会い、そして生きる、あの町の、あの森の、帰るべき家だ。
 幸せは、いつだって、すぐそこにある――絵本の教えをいまいちど胸に抱いて、ノーラはゆっくりと眠りの波に身を浸す。
 これから旅立つ夢の世界で、ユカと一緒に素敵なお宝でもみつけられたらいいのにと、思いながら。