巻き込まれ大学生は人魚と少女の愛を記す

 夏らしい白さを帯びた日差しが、長く伸びていく線路の景色をゆらめかせている。
 駅のホーム屋根の下は日陰にのうえ、午後から吹く北風のおかげで、幾分か過ごしやすい。まあ、暑いものは暑いのだが。
 のろのろと視線を動かして見回した周囲には、自分の他にはわずかに人がいるばかりだ。
 この時間帯の田舎の駅なんて、まあこんなものだろう。
 設置してあるベンチに腰かけたまま、スマートフォンで電車の時間を確かめる。
 あと十分もしないうちに電車がくるはずだ。電車の接続が悪いのは、田舎ならばよくあることである。
 また、風が吹く。
 その中にかすかに漂う潮のにおい。瞼をおろして胸を膨らます。
 懐かしい。香りと記憶は密接に繋がっているものだという。
 瞼の裏に過るのは、父や母、友人たち。そして、集落でもひときわ大きい家の門に立つ、優しく微笑む小柄なひと。
「……?」
 潮のにおいがひときわ、濃くなった。神経がひりつく。吸い込んだ風が、べったりと喉に張り付くよう。冷たい気配が、ずるりと肌を這いずった。
 これまでにない奇妙な感覚に眉を潜めて、瞳を開く。
 そうすれば、目の前に誰かが立っていた。
 足音も気配もなかった。反射的に視線があがる。ぱちん、と音がたつように目があった。
「ね~、喉乾いたぁ」
 遥か高い位置にある人懐っこい笑顔が、こちらを見下ろしている。
 外国人らしいオリーブ色の瞳は、買ってもらえることが当然だと言わんばかりの純粋さに彩られている。子どもが親にねだるようなそれだ。
 いや、花の大学一年生の自分には、こんな大きな子どもなどいないわけだが。
 一拍ののち、「ああ、そうだったそうだった」と小さく溜息をつく。
暑さで少しばかりやられていたようだ。ちゃんと相手をしなければ。
 なにせ自分は、この誰もが振り返るモデルのような体躯には、自由奔放が詰め込まれていることを知っている。
 無視をして、興味本位であっちこっちに行かれたあげく、電車に乗り遅れると面倒なことになる。
 ここはいつもの大学近辺ではない。電車の本数が限られているのだから。
「しゃーねえなぁ、どれ?」
 ベンチから立ち上がると、飲み物をねだった人物は、「うまくいった」とばかりに笑みをいっそう深くした。そして、躍るような足取りで自動販売機の前に移動する。
 小銭入れを出しながら、その後を追う。
「これぇ~」
 長い指が示したのは、かつてよく飲んでいた清涼飲料水だった。ついつい顔が綻ぶ。祖母相手に、よくねだっていた記憶がよみがえる。
「これまだ売ってんのなあ」
 小銭を投入してボタンを押す。転がり落ちてきたその缶はよく冷えていて、自分も飲みたくなってきた。
「ほら、フロイド」
「あんがとね」
 ほい、と軽く放り投げれば、なんなくそれをキャッチした同じ大学に通う友人――留学生であるフロイドが、無邪気に笑った。
「俺もよくばあちゃんに買ってもらってたよ」
「オレ、ガキじゃねえんだけど」
「俺だって2メートル近くある孫を持った覚えはねえよ」
 プルタブを起こし、フロイドが缶に口をつける。
「あまぁい」
「そうかも。でも妙にくせになる味なんだよな~」
 その後、あまり味が好みではなかったのか、飽きたのか。中身が半分以上残っている缶を押し付けられた。どうしたもんかと肩を落としている間に、電車が駅へと滑り込んでくる。
 慌てて飲み干してゴミ箱に放り込み、ベンチに置いていた荷物を抱えて、乗り込む。
「そういや、アンタのおばあちゃんってどんなひと?」
「おばあちゃんかあ……ちょっといろいろあんだよなあ」
 ボックス席に向い合せに座ろうとしたが、フロイドの足が長すぎる。
 席を占領してしまうことになるが、あまり人も乗っていないしいいだろう。対角線上に座ってから、口を開いた。降りる駅まで、まだ少しある。昔話に興じるのもいいだろう。

 俺には、祖母と呼べる人が三人いる。
 母の母、父の母、そして父が養子となった本家の養母だ。
 全員が「おばあちゃん」にあたるので、ややこしくなるから「母方祖母」、「父方祖母」、「本家祖母」とする。
 俺が飲み物をねだったのは、本家祖母である。
 本家祖母は、変わった人だった。いや、不思議な人というべきかもしれない。
 本家の一人娘であったが、若い頃に行方不明となったことがあったという。もちろん大騒ぎとなり、大捜索が行われたが、まったくもって手掛かりは掴めず、神隠しにあったとさえいわれたそうだ。
 だが、数年後、本家祖母はあっさりとみつかった。
 本家からほど近い海岸の波打ち際に立ち尽くしているのを、地元のひとが見つけてくれたらしい。
 外傷はなく、髪も肌も綺麗で、仕立ての良いワンピースと特注とおぼしき可愛い靴を身に付けていたことから、酷い目にあっていたどころか生活環境はすこぶるよかったのだと伺えたそうだ。
 誰も彼もが帰宅を喜んだ。だけれど、ひとつ問題があった。
 本家祖母は、身籠っていたのだ。
 行方不明であった期間の記憶は、ひどくあいまいだったようで、父親のことはついぞ判明しなかった。
 残酷な話だけれど、本家祖母の両親も親戚一同も、子を諦めるようすすめたという。
 だって、本家祖母はまだ若かったし、これからのことを考えれば、父親のいない子どもを育てるには苦労が多い。子ども好きの親戚たちにとって、苦渋の判断だった。
 だが、本家祖母は頑なにそれを拒んだ。
 もとより、本家祖母には甘かった――というか身内に甘い親戚たちは、生むことを望むのならば致し方なしとそれを受け入れ準備を進めた。
 しかしながら、本家祖母の体調が芳しくなく、流産したそうだ。
 死産した子は、まるで魚のように両の足がくっついていたという。
 これでは無事に十月十日たち、生まれたとしても、早晩亡くなっていただろうと、皆思ったとのことだ。
 関係者には口外しないように求められ、哀れな子は荼毘に伏された。小さすぎて骨は残らなかった。
 本家祖母は療養の後、無事に回復した。
 それから、高認の試験を受け、同世代からは幾分も遅れて大学に入学。無事に卒業し、本家の事業の手伝いをはじめた。
 気立てがよく、愛想もよく、それでいて物怖じしないところもあり、周囲から愛されていたという。仕事もよくできた。
 だが、生涯結婚はしなかった。
 本家が見合わせた誰ともうまくいかなかったのだ。最初は乗り気だった男たちのほうから、青い顔をして口数少なく断りにくるものだから、なにか悪いモノでも憑いているのかと心配されて、そういった方面に強い父方祖母が呼ばれたこともあったらしい。
 結果としてはなにもない、ということで、あとは本人同士の意思の問題とされた。なにせ、結婚は一人ではできないのだから。
 周囲の騒動をよそに、本家祖母は結婚できずとも一向にかまわないという様子だったらしい。
 本家祖母自身はそれでよかったかもしれないが、周囲はそれをよしとしなかった。
 このまま本家の跡取りがいないのは困るということで、分家の中から本家の事業に参加していて、かつ継げるものを養子として本家に迎え入れることにした。
 幾人かの候補者のうち父に決めたのは、本家祖母だったそうだ。
 それに誰も意義を唱えなかったし、文句もなかった。
 だって本家祖母は、たまに悪だくみをすることもあったけど、おもしろくて、いいひとで、みんなの信頼も厚いひとだったから。そんな人が選んだなら、と。
 じゃあ俺が本家の人間になったかというとそうでもない。
 本家は、父の後を兄が継ぐことなっている。兄の嫁さんは地元の有力者の娘で、昨年は元気な子供も産まれた。よって、次男の自分に出番はなく、気楽なものなのである。
 帰省しても、父方祖母の家で寝泊まりしているし、自分の部屋もそこにある。本家=実家という意識がどうにも薄い。
 もちろん、こんな身内の内情すべてを赤裸々に語ることはない。
 差し障りないような部分を、ある程度繋がるようにして、フロイドに聞かせてやった。秘すべきところは隠したまま。

「……そ。で、そのおばあちゃんてぇ、今どーしてんの?」
「え、本家のおばあちゃん? 亡くなったよ、三年前になるかな」
 そう言えば、フロイドは固まってしまった。目尻の下がった瞳が、まんまるになる。光の加減か、一瞬だけ金色にみえたそれは、満月のようだった。
「あれ、いってなかったっけ?」
「知らねえよ」
 声が一段低くなる。機嫌を損ねたのだと気付いたが、どうしようもない。
「おもしろいおばあちゃんだったからフロイドに会わせたかったな~」
「あっそ」
 急激に機嫌が降下していくのがわかるが、自分の話に悪いとこがあったとは思えないので放置する。大学生にもなって、自分で自分の機嫌をとれないのはダメだ。
「お、そろそろ海が見えるぞ」
 電車が平地を駆け抜ける。防潮林の向こうにチラチラと見えていた青が、電車の左側に鮮やかに広がった。
「ほら!」
 陽光が波間に輝く。日によっては海と空の境があいまいなときもあるけれど、今日はくっきりとわかれていて、海の色が濃くみえる。
「………馬鹿小エビ。なぁんで待ってないわけ?」
 そんな呟きの意味を、故郷の海をみつめる俺は、理解できなかった。

「おまえ、とんでもないもの連れてきたね」
 家の玄関先で仁王立ち。
 帰郷した可愛い孫に開口一番そんなことをいう祖母に目を瞬かせる。ちなみにどの祖母かというと、俺が生まれ育った家に一人で住んでいる「父方祖母」である。
「ええ~?」
 まあ確かに? フロイドはモデルみたいな男だ。だが、とんでもないと評されるほどだろうか。友人を連れてくると報告していたと、思うのだが。あれ? してなかったっけ??
 記憶が曖昧であるが、現実として自分はフロイドを連れてきている。
 しおしおと眉を下げ、首を縮こまらせて、反省の意を示す。
「急に連れてきたのは悪かったけどさ、あいつそんなに悪いやつじゃねーと、思う、んだけど……」
 父方祖母は「みえるひと」だ。人でないモノをみる目をもつ。
 霊能力者といったほうが伝わりやすいかもしれない。本人は、そんなものではないと言い張るが、常識の範疇外のことでよく頼られているので説得力がないと思う。
 そしてそんな人だからこそというか、人を視る目も確かだ。そんな父方祖母が、とんでもないと評するなんてフロイドはなにをしてきたのだろう。
「……」
 凪いだ夜の海のような父方祖母の瞳が、何かを見定めるようにみつめてくる。
 ぶるり、背筋が勝手に震える。
 父方祖母は、体は小さいが、その目は鋭い。気迫というかなんというか、存在感が違うのだ。無言で視線を向けられた、ただそれだけで竦んでしまう。
 暑さでだけでない汗をかきながら、なんと言い訳を重ねようかと考えあぐねていると、深々とした溜め息が返ってきた。
「ありゃあ、『すいよう』の類だよ」
「水曜?」
 思わず手にしたスマホで、日にちを確認してしまう。
「おばあちゃん、今日は月曜日だよ」
 とうとう痴呆が? と思いつつ、真顔で訂正する。
 やれやれと、父方祖母が頭を振った。
「おまえはまだまだだね。いいようにやられちまって、まったく」
「え~?」
 いつになったらアタシの後を任せられるようになるんだかと、ぐちぐちいっている。ご期待のところ申し訳ないが、任せられるつもりは今のところない。
「ま、好きにさせておやり。ありゃ、アタシの手にも負えないからね」
「う~ん?」
 そんな生物いるわけないだろ、と思ったけど口には出さない。
「そこの。おはいり」
 路地の先、日陰で寝そべるネコを楽しげに見つめていたフロイドが、父方祖母の声を受けて立ち上がる。にぃ、と唇の端が持ち上がった。
「いいの?」
「ああ、異邦からの客をもてなさないのは失礼だからね。エビス様相手とまではいかずとも、茶の一杯もださねば礼を欠く」
 エビス様――海からの来訪神のことだ。
 まあ、フロイドは海が似合うイケメンなのは間違いない。だけど、神様扱いに近いことを考えるなんて、案外と父方祖母はイケメン好きなのかもしれない。
 フロイドが無邪気に笑う。
「ふぅん、ヘンな国。オレのとこじゃ、あやしいヤツが流れてきたら縄張りから追い出すよ?」
「国て。急に大きいこというじゃん」
 そうはいっても、海洋国家であるこの国は、海からもたらされるものは基本的に「幸」なのだ。恐ろしくもあるけれど、たくさんの恵みを与えるものを人は畏怖し、崇め、尊んできた。
 フロイドの言葉に笑いながら、玄関の敷居をまたぐ。
「あー、やれやれ。ただいま~」
 ようやく家にはいれた。フロイドを居間に案内すると、おもむろにしゃがみこみ珍しそうに畳を撫でた。
「すげー、草じゃん!」
「その反応のほうが草だわ」
 いまどきの賃貸は、おおむねフローリングだろうし、ましてやフロイドは外国人。珍しいのだろう。
「ほれ、お飲み。喉が渇いてるだろう」
 父方祖母がだしてくれたのは、よく冷えた麦茶だ。夏はこれに限る。
 茶請けとしてだされたのはよくわからないお菓子だ。年寄りはどこでこういうのを買ってくるんだろう?
 長年の謎にあらためて首を傾げながら、目の前に置かれたコップを手に取る。かろん、と氷が鳴る。
 お茶が、するすると喉を滑り落ちていく感覚が気持ちよい。
「俺、ちょっと自分の部屋いってくるから。寝る部屋、俺と一緒でいいだろ?」
「なに、泊めてくれんの?」
「当たり前だろ。どこ行く気だよ」
「あんがと。お人好しだねぇ」
 フロイドは子どものようにニコニコ笑って頷いた。
 古びた階段をあがっていけば、さわさわと自分の頭を撫でていく気配がする。
 ちら、と視線を送れば恥ずかしそうに影だけ残して消えていく。
「ただいま」
 優しい気遣いをしてくれる、この家に古くからいるモノたちに声をかけて笑う。
 昔は怖いときもあったが、悪さをするわけではないので慣れたものである。
 自室の戸を開ければ、夏の熱気がこもっている。このあたりは、午後になると山から風が吹くので、そちら側の窓をあけた。
 もともと、あまり物を持たない主義なので、一人で寝るのには問題ないが、フロイドのことを考えて、荷物を納戸に片付ける。
 フロイドの図体では布団からはみ出すんじゃなかろうか。夏だからまあいいか。
 ある程度のところで一階に戻ると、畳に長い手足を投げだしたフロイドがいた。ごろりと寝返りをうって、猫のように目を細める。
「畳ってきもちーねぇ、きいてたとおり~」
「俺はお前のくつろぎっぷりに驚いてるよ。もう我が家じゃねーか」
「んふふ。気に入っちゃった~」
 しゃかしゃかと手足を動かし、大の字になったり、まっすぐになったりとせわしない。楽しそうでよいことだ。
「今日はこのまま家にいるんだよ。あまり集落内をウロウロしないことだ」
「うーん、おばあちゃんがそう言うなら、今んところはいうこときいたげる」
 いつの間に手懐けたのか、フロイドが素直に言うことを聞いている。驚きである。
 うむうむと頷いた父方祖母は、次いでこちらに視線を向けた。
「おまえも本家へのご挨拶は明日におし」
「うん、わかった」
 本家にいる両親には、連絡をいれてあるし大丈夫だろう。

 その日の晩御飯は、父方祖母が用意してくれた豪勢な魚料理の数々だった。おもてなし、というのは偽りではなかったようだ。
 フロイドも美味しいといっていたから、満足してくれたのだと思う。
 なお、やはり布団の大きさは間に合わなかった。
 はみ出した手足が面白かったので笑ったら、おもむろに絞められた。宿を提供した友人に対して、あまりにも理不尽な行いである。

 翌日。
 朝食をすませ、身支度を整えると父方祖母の家のことを片付ける。
 父方祖母を頼るひとたちが置いていった品物やお礼の品を、指示をもらいながら選り分けた。
 ちょっとヤバそうなものもあったが、みなかったことにする。きっと父方祖母がうまいことやるのだろう。
 スニーカーの靴紐を締めて立ち上がる。
 先に玄関から出ていたフロイドが勝手にどこかにいっていないことを確認してから、家の中に向かって声をあげた。
「じゃあ、本家いってくるね」
「ん」
 台所の方向から歩いてきた父方祖母が、「わかった」というように頷いた。
「じゃあね、おばあちゃん。あんまり変なモノ貰わないほうがいいよ」
 フロイドが開け放っていた玄関の向こうから、ひょいと顔を出してそんなことを言う。
「そういうわけにもいかないんだよ。ま、ありがとうね」
「んふふ~~。美味しいご飯の対価ね」
 父方祖母の致し方ないという言葉にフロイドが笑った。
「気をつけておゆき。長い旅路の酬いが、よきものであるように」
「大げさだなー、おばあちゃんは」
 いくらフロイドが外国人とはいえ、今の世の中は飛行機や電車がある。長い旅路といっても……そういえば、フロイドの故郷ってどこだったっけ? まあいいか。
 父方祖母の家を出て、ややきつい日差しに揺らめく道路を、のんびりと歩く。
 ふと足を止めたフロイドが、道端に当たり前のように存在するものを指差した。
「ねー、この小さいおうち、なんなの?」
「祠だよ。お地蔵さまが祀ってあんの」
「オジゾーサマ」
 聞き慣れない言葉を、幼子のようにフロイドが繰り返す。
 地域の安全や子どもを見守る存在と伝えるが、それでも首をひねるフロイドにどこまで伝わっただろうか。
「ずーっと昔に、高名なお坊さんがこのあたりを旅したとき、みんなでもてなしたら、お礼にってあちこちでお経をあげてくれて、その場所にこういうのを建てたってきいてる」
「オボーサンってなに?」
 なるほどそこもわからんかも。
「聖職者っていったらわかる?」
「うん。じゃあ、これってカミサマ?」
「ちがうんだけどなんていったらいいんかなぁ。あ、でも場所によっては道祖神も祀られてるし……」
「??」
 仏教と神道。発祥や根本は異なるのに、この国に住む人々の生活に重なりあい、自然と融け合って存在する。その独特の在り方を、なんと伝えたらよいのやら。
 父方祖母なら、うまいこと伝えられただろう。しどろもどろに自分なりの解釈を踏まえて説明すれば、頭のいいフロイドはそれなりに理解したようだった。
「なんかごちゃごちゃしてて意味わかんねーって思ったけど、うまいことできてんね。ヘンな国」
 たくさんあるから気になったのだろう。こういうのも異文化体験というものだ。おおいにこの国、ひいてはこの町に興味を持ってもらえたら嬉しい。
「こういうのは、よそから侵入しようとする悪いもの……たとえば疫病とか、そういうのがはいらないようにって昔の人の願いがこめられてるんだよ」
「ふーん……」
 じっと祠を見つめるフロイドが何を考えているのかさっぱりわからないが、父方祖母ならもっと詳しいことを知っているだろうから、帰ったら夕飯のときに教えてもらうのもいいかもしれない。
「ほらもういこうぜ、干からびちまう。本家はこっち。古いほうの家が観光できるようになってんだ」
「へぇ~」
 祠の前から少しばかり東へゆけば、坂道の上に建つ大きな屋敷がみえてくる。
 本家はもともと、この港町随一の網元だった。いろんな事業を手掛けていて、かつては海運業も取り仕切り、北の方との交易で随分と儲けたという。
 その名残で、家屋敷はでかいし、庭も立派。古い家屋は文化財指定を受けている。
 とはいえ、現代ではなかなかどうして、もてあますものである。
 なので、家屋の一部や庭を開放して観光料を得ている。たまにコスプレイヤーさんたちが写真撮影にくるとか。
 つらつらと聞き齧った程度の話をしながら、開いている門扉をくぐる。
 しかし、これまで気のない返事をしていた気配がついてこない。
 振り返ると、フロイドが立ち尽くしていた。
「どした、フロイド」
 答えはない。
 近寄るが、ぴくりともしない。
 門の敷居を挟んで向かい合う。
 イケメンの真剣な顔ってこんなに迫力あるんだな、と。どこかズレたことを考える。
「はいっていーい?」
 その神妙な言い方ときたら。普段とのギャップがすごくて、思わず噴き出す。
 自由奔放、傍若無人が人の形をとったような男が、妙に遠慮している姿がおかしかった。
「ほら、さっさとはいれよ」
「!」
 ぱっとフロイドの顔がほころぶ。心の底から嬉しそうな顔だ。
 長い脚が伸びてくる。全身を敷地内におさめたフロイドが両手をあげた。
「はいれたぁ!」
 やたらと嬉しそうな顔をして、ぴょんとひとつジャンプする。子供みたいだ。
 そんなに畏まらなくてもいいのに、変なところで律儀だ。
「おや、坊っちゃん」
 俺にそんな声のかけ方をするのは、本家繋がりの誰かだ。
 振り返れば、案の定、見知った高齢の男性が立っていた。
 物腰丁寧で、手先が器用で、何でもできて、子どもの頃から可愛がってくれた人だ。定年を迎えたあとも、こうして本家で細々とした仕事をしてくれている。
 穏やかに微笑むその人につられて、こちらも笑う。
「こんにちは。父さんたちいます? この時間帯なら事務所ですかね?」
「ああ、お二人なら、先ほど奥にいかれましたよ。秋祭りのうちあわせ後で、祭りに使う物品の確認が必要になったとか」
「そっすか。じゃあ、家の中で会えるかな。仏壇に線香あげてから探してみます」
「それがよろしいでしょう」
 では、と軽く会釈して敷地内にある事務所へと向かう後ろ姿を見送る。
 そのまま本家の玄関から中に入る。
「へぇ~、案外と天井高いじゃん」
「そうかもだけど、鴨井には気を付けないと」
 子どものように家のなかを見回して、すぐそこにある座敷に入ってみようとしたフロイドが、ゴチリと鈍い音を立てて仰け反る。
「いって!」
「あちゃー、ちゃんと前みてないからだよ」
「もっとはやくいってよぉ」
 言ったって聞かないじゃん。
 そんな言葉は飲み込んで、フロイドの高い位置にあるおでこに手をかざす。
「おおよしよし、痛いの痛いの飛んでけ~」
 緑豊かな庭に向かって手を振る。ぽいぽいとしてやれば、フロイドが顔をしかめた。
「それ子供にやるやつでしょ?」
「あはは、よく知ってるじゃん」
「しめるわ」
「勘弁して」
 そんなことを言いながら奥へと進む。
 仏間には、立派な仏壇が設えてある。代々信心深い家系なのだ。
 ふとみれば小さな箱が目につく。さきほどフロイドに話した高僧がまとっていた衣の切れ端が入っていて、そこにありがたいお経が記してあるとか。開けたことないので、実際は何が入っているのか知らんけど。
 仏壇の前に座り、線香に火をつける。手で仰いで火を消して、線香立てに立てた。いい香りが漂う。
 手を合わせてお題目を唱え、そういえばフロイドは仏壇を前にしてどんな態度をとるかと気になった。
「フロイド~、っていねぇし!」
 いると思っていた背後には誰もいない。慌てて仏間を飛び出す。
 長い影が、廊下の向こうに消えるのがみえた。その先は階段だ。
 あとを追いかけると、和室の広縁に置かれた椅子の前で、身じろぎせず立つフロイドがいた。
 本家祖母の、お気に入りの場所であったところだ。
 開け放たれた窓から、風がはいってくる。一階からはみえない海がよく見えて、俺も好きな場所である。
「ね、これ」
「おばあちゃんがよく座ってた椅子だよ。ここからなら、いつでも海がみえるからって」
「そっか。海、好きだった?」
「うん。たぶんね」
 好きなのは間違いないと思う。でも、あれは、ただ好きというか――そう、本家祖母のあの横顔は、焦がれるなにかを見つめるような、まるで恋するような熱があった。
 そして、今、目の前にいる男も同じような瞳で、椅子を見下ろしている。
「あは、待っててくれたんだぁ」
「ぁ、」
 あまりにも愛しそうにそう呟くものだから、なんだか聞いてはいけないものを聞いてしまった気分になる。
 どうしてこちらが気恥ずかしい思いをしなければいけないのか。内心で首をひねる。
 あからさまにご機嫌なフロイドをつれて二階から降りると、廊下の向こうから歩いてくる人影がふたつみえた。
「父さん、にいちゃん! ただいま、元気にしてた?」
 手を振りながら声をかけると、父と兄がこちらに気付く。
「おお、おかえり。こっちは、まずまずってところだ」
「そっちも元気そうだな。そちらは?」
 久しぶりに顔をあわせる家族らしい会話をしたあと、俺の隣に立つフロイドを紹介する。
「フロイドっていうんだ。大学の友達。留学生なんだけど、日本の田舎に興味あるっていうから連れてきた」
「こんにちはぁ、お邪魔してまぁす」
 無表情であれば怖くなるほどの美しい顔を、やわらかに緩ませてフロイドが挨拶する。
「そうか。帰るまで、ゆっくりしていきなさい」
 父は穏やかに頷いて、逗留の許可をくれた。
「お昼も近いし出前でもとるか。お前好きだったろ? あ、フロイドくんはラーメン食べられる?」
 兄からの喜ばしい提案に、お、と思わず声を漏らす。どういうこと? とフロイドがこちらに視線をよこす。ぐっと拳を握り締める。
「地元の中華屋さんのラーメン、すごく美味いんだよ。おばあちゃんも好きだった」
「え~、食べる!」
 きらっきらと大学生二人が顔を輝かせ、期待に満ち満ちた視線を向ければ、父と兄がおかしそうに笑った。
「ははは、元気だねぇ。いいことだ」
「じゃあ、ラーメン届いたら事務所に呼ぶから。あんまり遠くにいくなよ」
「ありがと~!」
 やはり持つべきものは、優しい家族だ。お昼が俄然楽しみになってきた。
「チャーシューめっちゃうまいから!」
「やった~楽しみ~!」
 わーい、と子供じみた声を廊下いっぱいに響かせて、俺とフロイドは諸手をあげた。

 父と兄と俺たちの合計四人で、和やかかつ美味しくラーメンをいただいたあと、フロイドからおばあちゃんの話をせがまれた。
 身内のことばかりになるから、つまらないだろうと思ったが、どうしてもとねだるので結局負けた。
 そうして、身内三人で、あれこれと昔話に花を咲かせた。
 途中で飽きるかと思ったが、フロイドは始終ニコニコ笑っていて楽しそうだったから、結果としてはよかったのだろう。
 そのうちフロイドが「写真がみたい」と言い出したので、父の了解を得て本家に移動し、アルバムをひっぱりだした。
 幼い頃の祖母、制服をきた祖母、働きだしたばかりの初々しい祖母。ゆっくりと歳を重ねていく祖母は、いつも笑顔だ。
 旅行での出来事、仕事での活躍ぶり。時に飛び出す切れ味のよい言葉の数々。なにもかもが懐かしく、いい思い出ばかりで、俺の口も止まらなかった。
「はー、いっぱいしゃべっちまった」
 気付けば喉がカラカラである。
 時計を見遣れば、帰宅を促すように短針と長針が時間を示している。
 この季節、太陽はまだまだ顔を覗かせているが、夕餉の用意もしなければいけないし、そろそろ本家をお暇しよう。
 そんなことを考えつつ、大量のアルバムを片付けて戻ってくれば、フロイドが部屋からいなくなっていた。
 短いとはいえないが、さして長い時間空けていたわけではないのに、一体どこへ?
「フロイド?」
 手洗いかな、と一瞬思ったが――違う、と頭の中で警鐘に似た何かが鳴る。
 不安のような、焦燥のような息苦しさを感じながら、頭を巡らす。なんとなく、居場所がわかる気がした。
 玄関で靴を履き、海風に導かれるように足を向けるのは、本家旧屋敷の奥だ。
 観光客には開放していない、一族以外の人は立ち入ることができないところ。
 そこは、この家に生まれた者たちが眠る場所だ。いくつかの古びた墓石は、一説には戦国時代からのものらしく、刻まれた名すら読めない。それらの他に、比較的新しい墓がある。それでも古いものだけど。
 その前にフロイドはいた。
 ぐるりと振り返られて、たったそれだけなのに肩が跳ねた。まるで、ここにくることがわかっていたみたいだ。
「やっぱわかんだねえ」
 長い影を従えて立つフロイドが、「予想はしてたけど」と言いながら、うっすらと微笑む。
「なに、してんの?」
 異様な雰囲気を感じ、足が竦む。さっきまで、けらけらと笑い合っていた同級生相手のはずなのに、急に得体のしれないなにかになってしまったみたいだ。
「そろそろ時間切れになる頃合いだし、小エビちゃん連れてこーと思って」
「は?」
 ごくりを喉を鳴らす。フロイドの背後には墓がある。そこは変わらない。だが、納骨室の頑丈で重いはずの扉が開いている。
 なんで??? どうやって???
 ど、と心臓が嫌な音をたてた。血の巡りは速くなったはずなのに、手足が冷える奇妙な感覚。
「小エビちゃんの生まれたところって、こんないいとこだったんだねえ」
 フロイドが視線を落とし、ひどく優しい声で語りかける。
 俺ではない。その相手は、大事そうに大きな手におさめた乳白色の骨壺だ。
 見覚えがある。だってそれは数年前におさめたばかりの、本家祖母のものだから。
 あまりのことに声もでないでいると、フロイドがそっと骨壺を持ち上げた。
「んふふ、いつもちっちゃいと思ってたけど、こーんなに小さくなっちゃって。ギュッてできないじゃん?」
 そう切なげに囁いて、フロイドは躊躇う素振りもなく骨壺に唇を寄せた。それはまるで神聖な場面を描いた宗教画のように美しく、決して踏みにじってはならない、尊い愛に満ち溢れていた。
「あ、」
 その瞬間、唐突に理解した。
 フロイドの目的を。なんで、わからなかったのだろう。こいつの正体を。普段なら、わかるのに。そうしたら、近寄ったりはしない相手なのに。
 思い至らないように縛られていた思考が、ほどけるように動き出す。
 やわらかな潮騒、煌めく波頭、潮のにおい。繋いだ手はあたたかく、視線をあげれば優しい笑顔が見守ってくれていた。

 おばあちゃんはね、人魚のお嫁さんなのよ
 そうなの?!
 妖精さんや可愛い魔獣だってお友達にいるの
 すごーい! 会ってみたいなぁ~
 ごめんね、おばあちゃんが帰ってきたから、もう会えないのよ
 じゃあ人魚さんにも?
 そうねえ、あのひとならいつかきっと迎えにきてくれるから、そうしたら会わせてあげるね
 楽しみ~!
 みんなには内緒よ
 うん!

 少女のようにあどけなく笑う本家祖母との思い出が、鮮やかに甦る。
 人でないものをみることができるのが怖かった自分を励ますために、それっぽく話をあわせてくれていたと思っていた。でもあれが、真実だったなら?
 口に手を当てて、目の前の存在を凝視する。
 どうしよう、どうしたら。焦りばかりが募る思考で、ぐるぐると正解を探す。
 そのとき、砂利を踏みしめる音がした。
「おい、なにしてるんだ?」
 同時にかけられた声に、びくっと肩が跳ねた。慌てて振り返れば、怪訝そうな顔をした父と兄がいた。
 普段冷静な父が、兄の顔色がみるみる赤くなっていく。
「誰だお前! 観光客か?! 勝手に墓をあけたのか?!」
「おい、それは母さんの骨壺じゃないか!」
「ま、まって、フロイドにもきっと理由が、」
 しどろもどろに間を取り持とうとすれば、すごい勢いで睨まれた。
「おまえの知り合いか?!」
「え、いやさっき、ラーメンいっしょに……あ、……っ?!」
 二人の怒りはもっともだ。でも、一緒に食事をしてある程度会話をしたことがある相手なら、少しくらい話を聞いてくれるはずだ。
 しかし、二人はフロイドを完全に余所者扱いしている。
 そこで、自分がすっかりフロイドの術中にはまっていたことを思い出す。
 さきほど、フロイドは時間切れといってたが、自分が彼の正体に思い至るようになった理由に近い何かが、この二人にもあったなら?
「おい、なにもわからない外国人なら許されるとでも?!」
「お前若いの呼んでこい! 警察にも通報しろ!」
 どうしたらいいのかわからず動けずにいると、父の指示を受けて兄が事務所のほうへと走り出す。
 まずい、まずい!
 そうわかっているのに、なにもできない。
「この墓荒らしめ! 警察に突き出してやる!」
 頭に血が昇った父が、自分の横を通り過ぎ、フロイドに手をのばす。
 ニィ、とフロイドが口の端を持ち上げる。さきほどまでどうしてだか気にならなかったけれど、艶やかな唇の合間から尖った歯がのぞいている。
 ぞわっと、背中を駆け上がる悪寒に従い、父親の背に飛びついた。
「やめて!!」
「?!」
 抱きついて押し止めてきた俺に驚いたのか、父の足が止まる。
「あれ? そんなことしていいわけ?」
「おまえがそういうこというか?!」
 こうすることになった原因であるフロイドが、あまりにも呑気なものだから、ついつい声が大きくなる。
「もういいからいけ! ばあちゃん連れてけ!」
 そう叫べば、フロイドは一瞬きょとんとしたあと、大きく口を開けて笑った。
「あは! さんきゅ!」
 軽やかに礼を述べ、フロイドは駆け出した。あっという間にその大きな背中がみえなくなる。
「おい! ふざけるな! 何を考えている!」
「おばあちゃんが待ってたのは、きっとあいつなんだ! いかせてやってよ!」
 追いかけようとする父を、足を踏ん張って引き留める。体格が違うので、引きずられるのをなんとか堪えるので精一杯だ。
「なに馬鹿なこといってんだ!? はやく追いかけないと母さんが……! 離さんか!」
「いってえ!」
 若いころから地元の柔道場に通う父を、いつまでも抑えられるわけもない。ぽいと勢いよく振り払われ、受け身もとれず地面に転がる。
「待てっ!」
 フロイドの後を追い、父が走っていくのを低い視界で見送るしかできない。
「あたた……くっそぉ……」
 己のひ弱さを痛感する。いやそれどころではない。
「オラァ!」
 気合一発。痛みをこらえて立ち上がり、足をもつれさせながら前に出す。
 なにかおかしいと思っていたのだ。ずっと、ずーっとひっかかっていたなにか。
 俺に「フロイド・リーチ」なんて友達は、いない。
 そもそも、そんな留学生、大学にいない!
 あの駅の、あのホーム!
 俺の前にフロイドが立った瞬間から、俺はおかしかった!
 それだけじゃない、父も兄も、本家で出会った人たちもきっとそうだ!
 本家母屋の横にある車庫へと転げるように駆け込んだ。
 田舎の不用心さで、鍵のさしっぱなしの原付バイクのエンジンをかける。高校はこれで通っていたのだからお手のものだ。
「うわ?!」
「坊ちゃん、どこへ?!」
 従業員数人とともに現れた兄の声を振り切って、夏の暑さに滲むような道路に飛び出した。
「フロイドー!」
 田舎の小道をうまいこと抜け、父をまいたらしいフロイドを坂の上からみつける。フロイドの行く先を予想しながら原付バイクを走らせる。
 うまいこと回り込めた俺は、フロイドに向かって叫ぶ。
「乗れ!」
「マジぃ?」
 ぎゃははと笑うフロイドを後ろに乗せて、アクセルを回す。
 ヘルメットはしていないし、二人乗りだし、警察にみつかったら終わりである。
 ああもう、フロイドがでかくて重いから、なかなか速度がでない。
 後ろで親父たちが怒鳴っている。
 わかっているんだ、バカなことをしてるってことくらい。
 でも、こいつは俺のところにきた。
 あの駅のホームで記憶を改竄したのは間違いなくフロイドだ。
 そうして俺は、この集落、ひいては本家に入るための呼び水に使われた。
 夢から覚めた、今ならわかる。
「俺があの家の人間だったから近づいたのか?!」
「そだよ! だってアンタ、小エビちゃんに似た匂いがしたからさぁ! ラッキーって!」
 濃い潮のにおいがする。バックミラー越しにみたフロイドが、笑っている。
 真の姿を暴くという鏡には、彼がひとならざるものだという証が映っている。
 ああ、父方祖母が言っていたのはこのことだった。
 すいよう――水妖、だ。水に棲むモノ。人間ではないモノ。エビス神とまではいかずとも、間違いなく海からの来訪者、人智の及ばぬ力をもつ、ヒトではないナニカ。
「人間じゃないんだな?!」
「そ、俺ってば人魚なんだよねぇ。こっちにはいないんでしょ?」
「どうしてここに?!」
「だからぁ、小エビちゃん迎えにきたんだってぇ~」
 そういいながら、フロイドは愛おしいものを相手にしているように、骨壺に甘ったるい視線を注ぐ。
 ああ、やっぱり。彼が「小エビちゃん」と呼ぶ存在は、本家祖母のことなのだ。
「やぁっとこっちにこられたのに、古臭いけどりっぱな結界あってはいれねえんだもん。魔法のない世界ってきいてたのに」
「それってばあちゃんに聞いたのか?!」
「うん。小エビちゃんに魔力はなかったし、そうなんだろな~って思ってたのに、ひどくね? なんの用意もしてこなかったから困っちゃった!」
 そんな様子を微塵も感じさせず、フロイドが朗らかに笑う。
「ぶっ壊してもよかったけど、小エビちゃんまで流されちゃったら困るじゃん? 客として招かれれば、問題なくはいれそうだったから、あんたにくっついてきたってわけ!」
 とんでもないことをあっさりといってのける人知の理の外に存在するモノに、頬をひきつらせる。
「津波でも起こすつもりだったのか?!」
「まあそんなとこ! でもオレの知らない小エビちゃんの話たくさん聞けたから、ンなことしなくてよかった!」
 フロイドが邪気なく笑う。ほんとうに、悪いことをしようとしたという気持ちがない。こちらの常識など通用しないのだ。
 その姿にまたぞっとした。出会ってから今までの時間で、ひとつでも自分が選択を間違えていたら、いまごろこの集落は海の藻屑と消えていたのだろう。
「ああもうっ、!」
 俺が責任をとらなければならないという認識を新たにする。
 会えないはずのものを引き合わせたならば、その想いがこれまで重ならぬものであったなら。再び巡り合えただろう彼らを、いかせなければならない。
 さもなくば、この集落はこの人魚の気まぐれひとつで、大嵐の波にさらわれて消えてしまうだろう。
 手に負えないといっていた父方祖母の言葉を思い出す。
 こんなの、誰にだって手に負えない!
 青くなった俺をみて、けらけらとフロイドが笑う。人の身には有り得ざる左右違う色の瞳が細くなる。
「お前、本性隠しきれなくなってんぞ!」
「あ、ごめぇん」
「とにかくこのまま駅いくからな! 今の時間ならちょうど電車がくると思うからそれに乗って――」
「そんなとこいかなくていいよ、海いって海!」
「はあ?!」
「いいからいけって、そら!」
 ぽこぽこと手加減した拳で頭を叩かれて、舌を噛みそうになる。
「わーったよ!」
 駅に続く道を左に曲がる。港へ続く坂道を駆け降りる。そのまま、フロイドにいわれるがまま、港の先端を目指した。
 干されている漁網の合間を抜け、ひしめき合う漁船の横目に、これ以上はいけないギリギリのところで停止する。ここから先には灯台があり、そこには徒歩でいくしかない。
 原付を乗り捨てて、コンクリートの階段を駆け上がる。ごう、と風が頬を叩いた。
「こっちの海も綺麗だねえ」
 ひょいと下を覗き込んだフロイドが呑気にいう。
 まさか、海をみたかっただけということはないだろう。
「フロイド、こっからどうすんだよ」
 通ってきた道を振り返れば、兄を先頭に父と駆り出された従業員たちがみえる。すぐここにやってくるだろう。
 一見すれば、追いつめられて大ピンチである。フロイドもそうだけど、俺もヤバい。拳骨どころでは済まない。ああ~、やだやだ。
 頭を抱えたくなった俺を尻目に、フロイドは踊るような足取りで、先へ先へと進んでいく。
 おい、その先は――
「こうすんの!」
 そういって、フロイドはこちらに笑みを向けたまま、なんの前触れもなく、背中から海へと落ちていった。
「おおおおい!?!」
 あわてて先端に駆け寄る。ここから海面まで、数メートルの高さがあるのに!
 だぽん、と水面を打つ大きな音が響く。いや、フロイドがいくら背丈のある男といえど、大きすぎる。もっと、もっと長くて大きくて、重さのあるものが、落ちたような。
「おい! 飛び込んだぞ!?」
 ようやく追い付いた父や兄たちが、俺と同じようにどっと押し寄せる。
 そして誰もがみた。息を飲んだ。
 長い尾鰭が、波をゆるりとかき混ぜる。逞しい背にはえた、立派な背鰭。陽光をはじく青緑のしなやかな身体。大きな手には水掻きがあり、先端には鋭い爪。整った顔にある耳は、宝石を薄く削って張り合わせたようなヒレ。
 そこにいたのは、おとぎ話のイメージを吹き飛ばすような、恐ろしくも美しい人魚だった。
 誰もが、縫いつけられたように、身動きができなくなくなった。
 呼吸も忘れ、その光景にみいった。だってあまりにも、現実離れしている。
 人魚は愛おしいものを慈しむように、骨壺を抱き抱え、くるりくるりと沈んだり姿をみせたりしながら海を進んでいく。
 長く永く、離ればなれであった大切なものを守るように導くように、もう決して離さないというかのように。
 きらきらと、どこかから光が舞い集う。
 蛍のように小さなそれらは寄り集まって、白く明るく、強くなっていく。まるで、太陽が落ちてきたよう。夕焼けの赤さえ白に染め、彼らの姿は飲み込まれていく。
 あまりにも眩しくて目を閉じる寸前、フロイドがこちらを向いた。
 その腕の中に、彼をみて微笑む少女の姿が確かに見える。
 みたことがある。あれは、本家の祖母の若かりしころの姿だ。
 いとけなく誰かを想って笑っていた、あの写真とおなじころの。彼女は、男の腕に抱かれながら、そのたおやかな腕に小さな何かを抱いている。
 それはきっと、小さな子ども。彼らの愛し子。
「おばあちゃん!」
 ひらりと細く白い腕が、波間に翻る。それは離別のあいさつか。それとも感謝のしるしなのか。
 俺の声すら飲み込んで、光は弾けた。

「……」
 あれはなんだったのか。
 断片的な記憶を書き留めるべく、こうしてペンを走らせているが、もうすでに記憶があいまいになりつつあるのがわかる。
 あの白い光が消えたあと、誰もが人魚のことも、拐われた本家祖母の遺骨のことも覚えていなかった。
 どうして漁港の先端である灯台の下に集まっているかもわからなくなっていた。まるで狐に化かされたような事態に、皆、首をかしげていた。
 怒られるのが怖くて、自分もそれに同意した。そもそも、説明のしようがない。
 意味が分からないとばかりの呆けた顔をして、みんなが三々五々に帰っていったあと、俺はそっと本家の墓に向かった。
 墓の扉はあの男の手によって開け放たれたままだった。おそるおそる中をのぞけば、どうしてか本家祖母の骨壺があった。海の向こうに消えてしまったはずのそれが、変わらぬ様子で、そこにあった。
 中身がどうかはわからない。もしかしたら、偽物がおいてあるのかもしれない。でもそれを確かめる勇気はなかった。そも、それが偽物であったとしても、もう誰にもわかりはしないのだから。
 墓の扉をゆっくりと閉めた。まるで魔法がかかっているかのように、軽かった。きっともう、自分だけでは開けられないと思った。
 蝉の声に追い立てられるように、ふらりと帰路についた。
 手の中から零れ落ちていく砂のように、記憶が消えていくことを感じながら、夕暮れの赤さに満たされた路地を、とぼとぼと歩いた。
 出迎えてくれた父方祖母はなにか言いたげであったが、「おまえは、おまえに出来ることをしただけだ」とだけ言って家に引っ込んでしまった。
 言葉にしたくてもうまく声にならなくて、だからこうしてやみくもに文字をしたためている。
 なんだったのだろう。
 ただわかるのは、彼らは再び巡りあえたということだ。それが、幸せだったであろうことだけだ。
 あの男は――もう名前さえあやふやだが――本家祖母を迎えに来た。この世ではないどこかからの来訪者。
 神様ではなかった。でも、その一途な想いの尊さは、ヒトでないものが示したものであっても胸を打つ。
 本家祖母はあの男を待っていたのだろう。
 海を眺め、死んだ子を想い、恋しい人魚を待っていた。もしかしたら、記憶が戻っていたのかもしれない。
 そもそも記憶を失っていたということさえ、嘘だったのかも。それなら、お腹の子を守ろうとしたことも道理がいく。
 さあ、と海からの夜風が頬をなでる。何かを拭い去るようなそれが海側の窓から山側の窓へと抜けていった。

 あんがとね

 誰かの声が、耳をくすぐる。
 風がおさまり、ふと目を落として驚く。
「なんだこれ?」
 手元のレポート用紙には、びっしりと走り書きのような文字が残されている。よほど焦っていたのか汚いったらありゃしない。
 ところどころ読めさえもしないそれを、じっとみつめる。間違いなく自分の字だ。
 いつの間にこんなものを書いたのだろう。
「異類婚姻譚? こんな課題なんてあったかな?」
 なにかしらレポートにしようとしていたとしても、自分はこんな話に興味はあっただろうか?
「……よくわからん」
 考えることを早々に放棄して、机の端に置いてあるクリアファイルをひっぱりよせる。
 意味はわからないし、自分に書いた記憶がないことが怖くもあるが、どうしてだか捨てようという気持ちにはならない。
 だって、いつか、読み返したくなるかもしれないから。
「ごはんだよ」
 食事の用意ができたと、父方祖母の声が階下からきこえる。
「いまいく!」
 俺は、よくわからない御伽噺が連なる紙を慌ててしまいこむと、美味そうな匂いがのする一階へと向かうことにした。
 部屋の電気を消して、廊下に出る。扉を閉める寸前に、窓が目にはいる。
 夜の闇に満たされたその向こうには、海がある。
 きっと今日は、黒く沈んだ穏やかな海に、月の光が水面を輝かせているのだろう。遥かなる世界へと続く道のような、美しい光景が広がっているに違いない。
 なぜだかわからないが、どうか幸せにと、そんな言葉が口からこぼれそうになる。
 それは誰のための言葉か。
 考えてもわからない。軽く頭を振って階段を降りていく。
 居間には、炊きたてのご飯、魚の煮付など、俺の好物が並んでいる。
 いそいそといつもの場所に座って、手を合わせる。
 よっこらせ、と真向いに座ったばあちゃんに、ちらっと視線を向ける。
「ばあちゃん、あのさ」
 俺、ばあちゃんのあと継ぐわ、と小さく告げれば、父方祖母は当然とばかりに頷いた。
「おまえは、好かれるからね」
 昔は恐ろしかったその言葉が、今日はなんだか誇らしく思えた。