ただいま、僕のヒーロー

「はー……疲れたなあ……」
 いつもはヒーローとして人々に不安を与えることのないよう、努めて明るい表情を心がけているが、そんな力も残っていない。
 家に帰ってきたという安堵から、すっかり気も緩んでしまった。ふああ、と欠伸をかみ殺しながら施錠をして革靴を脱ぎ、玄関へとあがる。
 今日でかけた場所は、高級料亭というだけあって食事はおいしかったし、案内された部屋からみえた庭は、ここが都会の真ん中であることを、一時忘れさせるほどの美しさだった。
 だがしかし、見知らぬ人と会うというのは、それだけで気力も体力も、いつもより消耗するものである。
 平和の象徴、オールマイトの後継者、老若男女から人気の高いヒーロー・デク―いまやそんな肩書きをもつに至った緑谷出久は、着慣れない高級スーツを一刻もはやく脱ぎたくてたまらなかった。
 歩きながらネクタイを緩め、シャツのボタンを外す。堅苦しいのは、どうも苦手だ。いつものTシャツとハーフパンツというだらけた姿で、思う存分ごろごろしたい。
 明日が休みでよかったなあと、あまり働かない頭で己の予定を思い出しながら、ヒーローになってからずっと住んでいる狭い我が家を進んでいく。
 力なく壁面のスイッチを押せば、やわらかな明かりが部屋を照らし出す。ようやく人心地ついて、息が自然と漏れた。
 とりあえず仕立てたけど、このスーツを着る機会って あんまりなさそう――そんなことをぼんやり考えながら、ジャケットを脱ぎハンガーにかけたところで、リビングのソファに誰か座っていることに気づいた。気配もなにも感じていなかったために、出久はひどく驚く。
「うっわっ?! って、え? あれ……?」
 反射的にスマッシュを繰り出そうとした身体を、すんでのところで押し留めた出久は、その人物を視界におさめたまま、目を瞬かせた。
 そこにいたのは、誰とも見間違えようのないほど長く 濃い付き合いをしてきた幼馴染、実力人気ともにトップをひた走るヒーロー――爆豪勝己だった。
 勝己は俯いたまま、まったく動かない。まるでよくできた人形のようだ。出久は眉をひそめて、一歩踏み出す。
「かっちゃーん……? ……んん? もしかしなくても、お酒飲んでる?」
 近づいて、整った顔を覗きこむ。
 それなりに酒精と遊んだのだろうと容易に推測できるほど、勝己の白い肌が赤らんでいる。
 と、いうか―ちらり、と視線をやったソファの前にあるローテーブルの上の惨状に、出久は頬を引きつらせた。
 ビールはもともと出久の家にあったもの。ワインは、何かの記念にいただいたもの。そのほか、焼酎に、日本酒、みたことのない海外のお酒。いくつもの缶と瓶が林立しているさまには、呆れるしかない。
 勝己は、座り込んだまま動かない。ひらひらと手を振ってみるも、反応が鈍い。ゆっくりと呼吸を繰り返しているし、目も開いているようだから、前後不覚というわけではなさそうだが―飲みすぎだろ、と出久は心の中で静かに突っ込んだ。
 と。
 それまで微動だにしなかった勝己の手が、素早く動いた。とはいっても、逃げられない速度ではない。出久は即座に反応しようとして―避けるのを、やめた。
「デク」
「なに、かっちゃん」
 強い力で手首を掴まれながら、出久は穏やかに応える。俯いたままの勝己の前で身を屈め、膝を着いて微笑む。
 どうして僕の家にいるの? とは言わない。なぜならば、この部屋の合鍵を、自ら手渡したのはこの世界で二人だけだからだ。
 なにかと心配をかけている母親。そして、今、目の前にいる、恋人の、この男だけだ。
 いつでも、好きなときに訪れていいと言ってある手前、勝己が出久の家にいても、なんの不思議もないのである。
 かつての自分達を知っている者ならば、この関係に誰しもが驚き慄くだろうが、それが事実である。
 なんだかんだといっても、出久には勝己しかいなかったし、逆もまた然りだった。ただ、それだけのこと。
 そう思えるようになるまで、随分と時間がかかってしまったが、出久はこの現状を後悔したことは一度もない。これからも、することはないだろう。
 しばらく押し黙っていた勝己が、ぎり、と奥歯を一度噛み締めたあと、顔をあげた。互いの視線が絡まる。
 昔は、怖くてすぐに逸らしていたけれど、いまは違う。出久は微笑んだまま、少し潤んだ赤い瞳を、穏やかな気持ちで見つめ返した。
「てめぇ、今日、なにしてやがった」
 低く、獣が唸るような声で訊ねられて、出久は思わず目を丸くする。
「珍しいね、かっちゃんが僕のこと気にかけるなんて」
「茶化すんじゃねえよ。いいからこたえろ」
 ふふっ、と出久は笑った。こういってくるということは、今日、出久が何をしてきたのか知っているのだろう。それなのに、わざわざ言わせたいらしい。
「お見合いしてきたよ。そのあとは、お相手のお父さんと、ちょっとしたパーティに参加してきた」
「このクソが……! 悪びれもしねーで、なにをぬけぬけと……!」
 勝己の知っていることと、出久の言ったこと。それが  合致したことで、勝己の目が怒りでさらに赤くなったように見えた。
「聞いたのはそっちじゃないか……落ち着いてよ。それに  かっちゃんが前に遊びにきたとき、お見合いに出かける こと話そうとしたよ? それを聞かなかったのはかっちゃんだろ?」
 一週間ほど前に勝己が訪れた際、出久は来週の自分の 予定を告げようとしたのだが、それをさせず問答無用でベッドへと引きずり込んだのは勝己である。
 そして翌朝、抱き潰された出久が目を覚ましたと同時に、急な仕事がはいったと姿を消したのも勝己である。
「……チッ」
 そのときのことを思い出したのか、勝己が鋭く舌打ちした。苛々としているのがその表情と態度から伝わってきて、出久は肩を竦める。
「そんなにふうになるくらいなら、普段から僕の話に耳を傾けて欲しいんだけど」
 ぷい、と勝己がそっぽを向く。だが、手はまだ放すつもりはないようだ。
 そして、出久をみないまま、勝己が唇を震わせた。
「……結婚、すんのか」
「さあ、どうかな。今日会った子は、オールマイトが事務所を立ち上げるときにお世話になった人の娘さんでね、可愛くて礼儀正しくて、言葉遣いも仕草も綺麗な子だったよ。あとね、僕のファンなんだって」
 真正面から「私、あなたのファンなんです!」と、真っ赤な顔で伝えられて、嬉しくないヒーローがいるだろうか。
 初々しくて可愛かったなあ、と頬を緩ませていると、勝己の不機嫌さが増したのがわかった。
 おっと、火に油を注いだかな、と出久は自分の迂闊さに何故だか笑いだしそうになった。
「……ンなことまできいてねえよ」
「そうだね」
「……クソが」
 いつもの覇気溢れる勝己からは、ちょっと想像できないような幼げな様子に、出久は小さく唸った。
「んー……かっちゃん、怒ってる? それとも拗ねてる?  ……ねえってば……。反応してくれないと、さすがの僕も愛想尽かすよ?」
 まったくもって本気ではないが、そう脅しをかけると、勝己から発せられる空気がさらに悪化した。
「どこでも勝手にいきやがれクソナード! そんでもって盛大にふられろ! 童貞こじらせて死ね!」
「なにいってんの。ここ、僕んちだからね? あと、ヒーローが人を呪っちゃだめだよ……っと、わ、わ……!」
 さらに顔を背けながら、口汚い言葉を吐いた勝己が、ソファの座面に寝転ぶ。出久の手を掴んだまま、である。
 当然ながら巻き込まれた出久は、共にソファに倒れこんだ。起き上がろうと試みるものの、それを許さないとばかりに勝己に抱きしめられる。
 まるで大きな子供だ。だが今回は、出久のほうがいささか悪いので、抵抗する気も起きない。
「どこにもいかないよ。いけるわけないって、わかってるくせに」
「ひっつくんじゃねえ」
 逞しい胸に、額を押しつければ怒られる。
「じゃあ、僕のことはなしてよ」
「デクのくせに俺に命令すんな」
 嫌なら離れようとすれば、文句を言われる。
「かっちゃん、言ってることとやってることがめちゃくちゃだよ」
 あははっ、と出久が笑うと、勝己がさらに腕に力をこめてくる。さすがに苦しさを感じるが、出久はそれを甘んじて受け入れた。
 いつもならこんな姿をみせない勝己が、すごく可愛いといったなら、きっと爆破されるだろう。だから、何も言わずに出久は勝己を抱きしめる。
「僕は、ここがいいよ」
 君の傍がいいんだと伝えれば、ぴくりと勝己の肩が跳ねた。
 溜息のような安堵のような、長く熱い吐息が出久の肌を擽る。
「じゃあ、なんで見合いなんかしにいったんだテメェは」
「オールマイトが、どうしても娘とデクを会わせてやってほしいって何回も言われててさ、すごく困ってたんだよ」
 恋人である勝己に対して、申し訳ないと思う気持ちは確かにあった。でも、オールマイトの力になりたかったのだ。
「それは……、オールマイトから、きいた」
「え、いつ?」
 おかしい。オールマイトには、面倒なことになりそうだからお見合いのことを勝己には黙っていて欲しいと、頼んであったのだけれど。
 てっきり切島や上鳴あたりが情報源だと思っていた出久は、わずかに眉根を寄せた。
「休みのはずなのに、テメェが電話にもでねぇし、家にもいないから、オールマイトに連絡とったらゲロった」
「ああ、なるほど……」
 きっと自分達のこうした関係を知っている恩師は、恋人としての勝己の問いかけに嘘をつけなかったのだ。無理を頼んでしまった負い目もあったのだろう。あの人らしいな、と出久は小さく笑った。
「性質の悪い冗談かと思ったっつーのに……この、お人好しが。俺までテメェのくだらない自己犠牲に巻き込むんじゃねえ」
「電話は電源落としてたから、繋がらなかったんだよ。それとね、彼女とはこれっきりだから」
 勝己の、綺麗に筋肉のついた肩が震える。出久は、安心してと言葉にはせず、そっと勝己の背を撫でた。
 嘘つけ、と。どことなく力のない声が囁く。
「……いい女だったって、さっきいってたろうが」
「お断りするから、もう会うことはないよ」
 穏やかに、だが、はっきりと言い切る。
 そもそも最初からそのつもりだったのだ。恩師が世話になった相手への義理を果たすために、一度だけ会う。これは、オールマイトだって了承済みのことだ。
 それに、相手の父親も表面上はいい顔をしていたが、いつ死ぬかわからないうえ、家族にも危険が及びかねないヒーロー業に身を置く男へ、愛娘を差し出すつもりはないというのが、態度の端々に透けてみえていた。
 おそらく、憧れのヒーローに会いたいという娘の夢を、かなえてやりたかっただけ、といったところだろう。
 まあそんなことは、どうでもいいことだ。もっと、大事なことがある。
「だって、僕には格好いい恋人がいるからね」
 そう言葉を綴りながら、気づかれぬように勝己の胸へ唇をよせる。いつもより幾分か速い鼓動を刻む心臓に、この想いが伝わるようにと願いながら、シャツ越しにキスを贈る。
 そのとたん、もぞりと勝己が動いた。ばれたのかな、と顔を上げれば、勝己はさきほどとは打って変わって、自信ありげにニヤリと笑っていた。
「クソにはもったいないくらいの恋人だろ」
「そのクソ相手にヤケ酒飲んでくだまいてるの誰だよ」
「俺だな」
「かっちゃんってたまに素直になるよね、怖い」
「うっせー」
 いつもの調子でやりとりしながら身を寄せあう。こつり、と額と額が重なりあう。
「……すこし、驚いただけだ」
「ごめんね、かっちゃん」
 出久が謝れば、勝己の目がまた険しくなった。素直には素直を。そう思って謝ったのだが、不機嫌になるとはこれいかに。
「ふざけんな。どうせ、誰か困ってたら同じことあっさりとしでかすだろうが」
「うん、そうかも」
 てめえの本質は自分を省みない異常なヒーロー精神だ、と言われたことがある。勝己のいうとおり、もしもまた誰かが同じようなことで困っていたら、手を差し伸べて しまうかもしれない。
「次は、ちゃんといえ」
「あ、僕、お見合いにいってもいいんだ?」
 思わぬお許しに、出久は驚いて声を上擦らせた。いや、もうなるべく行きたくはないのだが、まさか勝己がそんなことをいうとは思わなかったのだ。
 はっ、と口の端を持ち上げて、勝己が見慣れた凶悪な笑みを浮かべた。心の底から愉しそうだが、見る側からしてみれば嫌な予感しかしない。
「オールマイトにいわれたからやらなかったがよォ…… 今度は、ブッ潰しにいってやるわ」
「かっちゃんが、とうとう敵になるのか……」
 幼馴染で恋人の将来を憂いて出久が遠い目をすると、たいして威力のない戯れのような頭突きをされた。痛いよと、笑いながら抗議をすれば、そこに熱い唇が落ちてくる。
 今日は、ずいぶんと勝己が甘い。
 なんだか嬉しくて、くすぐったくて、出久は蕩けるような笑顔で首をすくめる。
 こうしてもらえるのなら、お見合いも深いお酒も、たまには悪くないと、少しだけ思ってしまった。
「誰が敵だ。危機から大事なモン救い出すヒーローだわ、クソが」
「あれ、お見合いってそんなあぶないものだっけ?」
 首を傾げて出久がそういえば、ごろりと勝己が体勢を 変える。組み敷かれる形となった出久は、勝己を見上げた。
 なにげなく勝己に向かって手をのばせば、そっと握り 返される。
「俺にとっては……これ以上ない危機だろうが……クソ、デクのくせに」
 変なこと言わせんじゃねーよ、と囁いた勝己が、出久の手へと顔を寄せてくる。
 傷だらけでごつごつした手に、大切なものを愛おしむ ように勝己の唇が触れた。古傷が、じん、と痺れる。
 ふ、と出久は薄く開いた唇から、吐息まじりの声を零す。  痛みがあったわけじゃない。ただ、身体と心が、どうしようもなく震えただけだ。
 出久の手を放し、頬を撫でてくる勝己の手が、温かくて気持ちいい。
 ふわりと漂う勝己の汗のにおいが、酒の香りよりも出久を強く惹きつける。
「……そっかあ」
 うっとりと出久は微笑んで、覆いかぶさってくる勝己の逞しい背中へと腕を回す。
 ああ、やっぱり、ここが僕の居たい場所。なにがあっても、絶対に、帰ってくるから。
「――ただいま、僕のヒーロー」
 おかえり、と。
 唇が触れ合う寸前、小さな応えが確かに聞こえた。