みなさんは、愛を知らなければなりません――
神の信奉者であるというその歳経た修道女は、皺だらけの顔に慈愛の笑みを浮かべ、歌うようにそんな言葉を紡いだ。
静まり返った教室、自分に割り当てられた出席番号17の席に座った少年――爆豪勝己は、若干白けた気持ちを抱きながら、ゆっくりと瞬きをする。
正直に言えば、勝己は教壇にたつ小柄な老女の言っていることが理解できなかった。
否、わかってはいる。だが、いまひとつ実感が持てない。
愛とは、いったいなんだろうか。
自分でいうのもなんだが、己は相当に恵まれていると思う。
両親は口うるさい部分もあるが、精一杯に愛情を注ぎ、ヒーローという夢に向かって邁進する自分を応援してくれている。
言葉にしたことはないが、そのことに勝己は心から感謝しているのだ。
まだ未熟な今の自分に返せるものは、なにもない。けれど、いつかその恩に報いたいとも思っている。
両親が傷つくのは嫌だし、幸せでいてほしいと思う。
きっとこんなふうに抱く想いを、愛というのだろう。
だが、それとこの老女のいう愛とは、別のものだ。
すなわち、身内ではない存在を慈しむという心のこと。
ああ、大丈夫だ。自分は、いちおう、それであると見当をつけられている。
この特別授業の趣旨を理解できていないのは、雄英高校ヒーロー科の生徒として話にならない。そのことにだけ、心の片隅で少し安堵した。
しかし、勝己には愛というものが、いまいちピンとこない。まるで次元の違うところにあるもののように思えて仕方がない。
辞書をめくれば、愛とはなんぞやと解説してある。恋愛小説を読めば、さまざまな愛の形がみえてくる。テレビをつければ、どこそこの芸能人が結婚しただの、不倫をしただの流れている。
そういう世間一般の理論を学び、実際に起こっていることをみても、さっぱりわからない。
たかだか他人に振り回されて、一喜一憂し、心が千々に乱れるなんてことが、ほんとうにあるのだろうか? いや、あるからこそ、世の中にはその手の話が尽きないわけなのだが――勝己には自分がそういったことの当事者になることが、想像できない。
ふ、と小さく息を吐く。考えてもどうしようもないことだ。いつかそのときがきたならば、わかるのだろう。
聖書の一節を読み聞かせるような、やわらかくあたたかな声は、ひどく遠いところから聞こえてくるようで、思考がぼんやりと霞んでくる。でも、一言一句聞き漏らすつもりはない。学べるものは学べるときに学んでおけば、いつか役に立つときがくるものだ。
理解はできずとも、せめて記憶には残るように、と。
勝己はわずかに睫毛を伏せて、老女の言葉に耳を澄ませた。
結果として、特別講師がいいたかったことは、愛をもって人を救え、ということだった。
人類愛、無償の愛――呼び方は様々なれど、ようは見返りを求めずに他者への愛をもつこと。だが、個人的な愛も忘れてならないこと。
人生をかけてみなさんが愛するひとをみつけられるように祈っています――そう、両手を組み合わせて微笑んだ老女は、どこか少女めいていて、それでいてすべてを知る母のようであった。
今は大きすぎると思うかもしれませんが、それぐらい背負って立たなければヒーローたりえませんからね、と言い切るその姿には、思わず眉をひそめたが。
穏やかで物静かなだけの元ヒーローと思っていたが、さすがにリカバリーガールの同輩というだけあって、その下には老練さを隠していたようだ。
でも、勝己が幼いころにあこがれた輝きは、必ず勝つあの姿だった。これまでずっと追い続けたものは、そんな強さだった。
ヒーローになるならば、それだけでは足りないことは、仮免に落ちたときに痛感した。かといって、それに対応する方法が、勝己にはいまだによくわからない。
しかしここを飲み込まねば、ナンバーワンヒーローには手が届かないどころか、指先を伸ばすこともできないだろう。
愛とは、なんだろう。
答えのでない疑問が、思考の片隅にこびりついて離れない。苛々してきた勝己が、ぎゅっと眉間に皺を寄せたと同時に、前を歩く少年が声をあげた。
「あ~! 誰か俺を愛してくんねーかな~!」
頭の後ろに手をやって気だるげに歩きながら、愛を乞うのはクラスメイトの上鳴電気だ。羞恥という概念はないのだろうか。
そんな上鳴の横を歩きながら、瀬呂範太が笑った。
「それで可愛い女の子だったらいうことなしってか?」
「そりゃあもちろんそうだろ!」
こーんな感じの! と、理想のプロポーションを両手の動きであらわす上鳴をみて、理想高すぎだろと瀬呂がまた笑う。
「すげえな。俺なんか、恋だの愛だのいわれても、いまいちピンとこねーよ」
切島鋭児郎が難しそうな顔をしているのをみて、上鳴が信じられないといわんばかりに顔をしかめた。
「おいおいおいおい、健全な男子高校生たるものそれじゃあだめだろ! 今日の先生もいってただろ、愛を知れってよ!」
「あのばあちゃんがいってたのは、そういうことだけじゃねーだろ?」
確かに、今日の課外授業で言われたことは、全体を通してみれば人を救うヒーローの心構えという話であって、男女の恋愛事情のことには少しだけ言及されたのみだ。
だが、この年代の少年はいいように解釈しがちなものである。
繰り広げられる健全な少年たちの喧騒に、勝己はげんなりとしてきた。いつまで続くんだコレ。
「かわんねーって! 恋を知らなけりゃ、愛もわかんねーって! 人類愛も大事だけどさ、その前に自分のことだろ! 個人的な恋愛もしろっていってたじゃん!」
「まあ、確かに好きなら守りたいって気持ちもでるし、惚れた女のところに帰ることを考えりゃあ、自分のことも省みることになるだろうしな」
拳を握りしめて力説とはいえない自己主張を声高に告げる上鳴に、瀬呂が飄々とした様子で同意する。
「そうそう! そういうこと!」
我が意を得たりといわんばかりに、顔を輝かせて瀬呂の肩に腕を回してはしゃぐ上鳴は、なんというか高校生というか思春期を迎えたばかりの中学生レベルだ。
いつまでもこんな会話につきあってなどいられない。というか、勝己には借りていた本を返しに行くという用事がある。
ちょうど玄関と図書館の分かれ道になる廊下にさしかかったところで、勝己は当然のように連れ立って歩いていた彼らから離れた。
しかしそれを見逃す彼らではない。切島が、どうした、といった顔で足を止めた。
「爆豪? どこいくんだ?」
「どこでもいいだろうが」
「えー、なになに! もしかして爆豪、女の子のとこいくとか?!」
そういう会話をしていたせいもあるのか、斜め上なこと言って食いついてきた上鳴に、勝己は眦を吊り上げた。
「うっぜぇな! その恋愛脳焼き尽くしてやろうか、あ?! そしたら少しはマシになんだろ!」
「こっわ!」
ボン、と軽く手の平の中で火花を散らせば、上鳴が大げさに仰け反った。それを見て、瀬呂がげらげらと笑った。
「で、ほんとのところは……?」
「本返しにいくだけだわ」
わずかに怯えながらも食い下がってくる上鳴には、適当に誤魔化すほうが面倒であると判断した勝己は、素直に用事を告げた。そうすると、あからさまにほっと顔を緩めた上鳴が、晴れやかに笑った。
「そっか、そうだよな! バクゴーに彼女とかないよな!」
「……あ?」
なんだその言い方は。たしかに、女になど興味はないが、そういわれると腹が立つ。まるで自分が恋愛音痴のようではないか。……達人でもないが。
「だよなあ。爆豪が恋愛するとかちょっと想像つかないわ」
笑いをひっこめた瀬呂が、わかるわーといわんばかりの顔で頷くものだから、勝己のこめかみがひきつる。
「そうか? 爆豪は男気あるし、女子に人気あるだろ」
「ストイックすぎるつーかなんつーか……。切島がいうとおり、モテそうだけど」
不思議そうに頭を捻る素直な切島に対し、瀬呂は肩を揺らして笑う。だが、勝己にはまったくもって笑える状況ではない。
「おい、」
「わかってねぇなあ、切島は! いいか、女の子っていうのはイケメンっていうだけじゃだめなんだよ! 優しくて気が利いてよく話をきいてくれて……最終的にはそういうのを求めるんだって!」
沸々とわきあがってくる苛立ちのまま、ぎゃいぎゃいと勝手にこちらの恋愛事情で盛り上がる三人になにか言おうとしたものの、やれやれといわんばかりに肩を竦めた上鳴に、その機会を奪われる。
勝己は、自分の頬がひくりと痙攣するのがわかった。つまり、上鳴は、勝己がそういう男でないと認識しているということか。女に尽くすつもりなどないが、ダメと言われればやはり腹が立つ。
「そういうもんか?」
さっぱりわからん、といわんばかりの困った顔をして、切島が首を傾げる。
「あー……まあ、こまかいところに気が付いてやるっていうのは大事だな。髪をちょっと切ったりしただけでも、いってやらないと拗ねるし。そういうのも可愛いっちゃー可愛いけどな」
自分の恋愛事情などどうでもいいが、他人の発言からなにかを読み取ることには長けている勝己は、片眉を跳ねさせる。
瀬呂の言葉の向こう側にある、女の影がしっかりとみえた気がしたのだ。女がいることは別に羨ましくはないが、ヒーローの資質といわれたことを身をもって体験している人間が身近にいて、少々驚いた。
「そ! バクゴーだったらそういうの絶対気付かねえ――って、おい、まて」
そうだよな、と同意を受けてさらに失礼な言葉を重ねる上鳴も、ようやく気付いたらしい。切島だけがわかっていないようで、疑問符ばかりを頭の上に浮かべている。
「瀬呂……もしかして……」
「……」
小刻みに震える指でさされた瀬呂が、一瞬動きを止めたのち――にやり、と意味ありげに笑った。
「あー! あー! おまっ、おまえ! さては彼女いるな?!」
ぎゃあああ、とこの世の終わりがきたといわんばかりの絶望顔で叫ぶ上鳴を置き去りにして、瀬呂が軽やかな足取りで玄関へと歩き出す。
「さあねえ~。じゃ、爆豪お先~」
「待てコラ! 裏切りやがって!」
ばたばたとその背中を追いかける上鳴の、羨ましさ満載の恨み節が遠ざかっていく。
ははは、と小さく笑った切島が、ひらりと手を振った。
「じゃーな、爆豪。また寮でな!」
「……おう」
散々な言われように怒鳴り散らそうと思ったところに、瀬呂の女関係を匂わせる発言で気持ちを殺がれた勝己は、小さくそう応えるしかなかった。
苛立ちを発散するべき機会を失い、わずかに残るくすぶった思いを抱えながら、勝己はゆっくりと図書館へと向かった。
本を返却し、また別の本を借りた勝己は、夕暮れの色に満たされた廊下を歩いていく。
誰の気配もない。皆、敷地内にある寮に帰ったのだろう。
静寂の学校を怖いと感じる者もいるかもしれないが、勝己はそう思ったことはない。夜のトレーニングメニューと食事をどうするか、と考えながら角を曲がった。
そして、ぴく、と片眉を跳ねさせる。
長い廊下の先に、大きな赤いリュックを背負い、もさもさとした髪を揺らしながら歩く、よく知った後ろ姿がみえた。
いつもつるんでいる連中と、教室から出ていったはずだ。なんでこんなところにいやがる。
事情は知らないが、あの少年――緑谷出久が自分の前を歩いているのは気に食わない。何がといわれても万人が納得する言葉にはできないが、とにかくあいつが先にいるのは許せない。
勝己は歩く速度をあげた。
学校内では、授業でなければ個性の使用は原則禁止である。爆速ターボで一息のうちに追い抜かしてやりたいが、そんな目的で個性を使ったことがばれたら、担任からの信用がまた下がるだろう。
クソが、と心の中で罵りながら、足音荒く距離を縮めていく。
ぼんやりゆっくりと歩いている出久が、背後から近づく何かの気配を察したらしい。
ん? といった様子で振り返り――迫りくる勝己の姿をみとめた瞬間、ひっと顔をひきつらせ、リュックの肩ひもにかけていた手に力をこめた。
「か、かっちゃん……! えと、奇遇、だね。いま帰るところ?」
怯えたように瞳を揺らしながら、それでも声をかけてくるあたり、忌々しい。嫌ならそれさえしなければいいというのに。いや、無視をするとかデクのくせに生意気だと思うだろうが。
勝己は、チッと舌打ちしながら出久を追い越した。
「てめぇにゃ関係ねえだろ」
「あ、うん。そう、そうだね」
だが、帰るところは一緒だ。となれば歩む方向が一緒になるのは、いたしかたがないことで。
勝己のあとを出久がついてくる格好となり、まるで小学生のころのようだと、わずかに思った。
ちらちらと、視線を向けられているのがわかる。その物言いたげな雰囲気に、苛立ちが募っていく。
やがて生徒用の玄関についたとき、勝己は立ち止まって振り返ると鋭く出久をにらみつけた。こんな状態で寮まで帰るなど、絶対に嫌だ。
「ンだ、コラ。言いたいことあるんなら、さっさと言え。鬱陶しいんだよ」
「あ、や……そのっ……なんて、いうか……」
なにか考えるように唇に手をあてていた出久が、ぴゃっと肩を跳ねさせる。
おろおろとさまよう大きな瞳は、すぐに伏せられて、勝己を映そうとしない。どこか後ろめたいところがあるのだろうか。そう思った瞬間、意を決したように、そばかすの散るあどけない顔があげられた。
緊張のせいかいつもより潤んだ大きな瞳と、ぐっと引き結ばれた唇。そばかすの散る頬が、ほんのりと色づいている。
なんでそんな顔をしてんだ――と、呼吸を忘れそうになった勝己を見上げ、出久が言う。
「かっちゃんは、さ……好きな人、いる?」
意味が、わからなかった。
「……は?」
数秒の後、眉をひそめ顔を歪めてそれだけを返せば、わたわたと手を過剰なほどに動かしながら出久は弁明をはじめる。
「あ、ご、ごめん、急にきかれても困るよね?! いやほら午後からあんな授業をうけたわけだしでも僕ってそういうのに疎いっていうか縁がないっていうかさ、あんまりよくわかんなくて、かっちゃんならきっとあの授業の意味もわかっただろうしもしかしたらもうとっくにそう想う相手がいたりなんかしたりするかもって……! あ、でもかっちゃんは今はヒーローになることで頭いっぱいだよねそういうことに興味ないよね! でもあの……、僕は、そのっ、いや……なにいってるんだろうね、僕……は、ははは……」
顔を隠すように持ち上げられた腕の向こうで、出久が段々と声を小さくしながら、そんなことを言う。
急速に膨れ上がり、それと同じくらいの勢いでしぼんでいった出久をみているうちに、なにを言われたのか理解した。それと同時に、かっと腹の底が沸騰したように熱くなった。
出久が相手でなければいつも冷静でいられる思考が、一瞬で白くなり、なにも考えられなくなる。
「いねえと思ってんのか! ああ?!」
上鳴たちに散々なことをいわれた苛立ちが蘇り、そんな存在などありもしないのに、勝己はそんな言葉を吐き出していた。
はた、と空気が固まった。それまで恥ずかしそうに顔を覆っていた出久の腕が、ゆるゆると下がっていく。
その下から現れた顔には、なんの感情も浮かんでいなかった。驚きもなく、焦りもなく、ただ真っ白というにふさわしい表情だ。
こちらのほうがなにかしてしまったのかと思うくらいに、出久の顔には生気が足りない。おい、と声をかけようとしたとき、出久が動いた。
まるで駆けだすような軽やかさで勝己を追い抜き、大きな扉をくぐって校舎の外へ出ていく。
舌打ちをしてそのあとに続いて外に出れば、足を止めて鮮やかな色彩に満ちた夕暮れの空を見上げたまま、出久は口を開いた。
「意外だよ」
「あ?」
なにがだよ、とは言葉にせず、佇む出久の横を通り過ぎる。後ろからついてくる足音は、子供のころからよく聴いていたものと同じはずなのに、いまは心なしか元気がないような気がした。
「かっちゃんなら、死ねとかいうかなって思ってたから」
「てめえがきいたんだろが!」
背中に届けられる言葉に怒鳴り返せば、力なく出久が笑った気配がした。
「うん、でも、」
ところどころ感情の色が抜け落ちたような声に、視線が自然とひかれた。
歩みを止めて、振り返る。出久が、夕焼け色の中、わらっていた。
「そんなにあっさり、教えてくれるとか……思ってなくて、」
どうしてだか、出久が今にも死んでしまいそうな気がした。
そんなはずはない。今日も元気に授業にでていた。ついさっきまで、能天気にこちらを苛つかせる声と言葉で、くだらないことをしゃべっていた。
だが、そう思ってしまった。
そしてそう思った自分に戸惑いが隠せない。
「驚いた」
ふへ、と笑った出久の表情に、ぐっと喉が詰まった。
適当なことをいっただけだと、お前が勘違いするようなことをいっただけだと、どうしてだか言えなくなった。
舌打ちをして、どうにかこうにか視線を外す。いつまでも、みていたいものではなかった。
「そういうてめェは、」
「うん?」
言葉の続きを促すように、出久が首を傾げたのが、視界の片隅に映る影の動きでわかった。
「好きな女とか、いんのか」
震えそうになる声をおさえての問いかけに、また影が揺れた。
「……うん!」
「……!」」
虚を突かれたのか、そんなことを聞かれると思ってなかったのか、わずかな間を置いてのち、出久が大きな声をあげた。
逸らした視線をゆるりと戻せば、出久の笑顔がみえた。
少し照れくさそうな、でもどこか憂いを帯びた様子に、いままでに感じたことのない痛みを覚えた。
好きな女。きっと同級生の誰か。いつも一緒にいる、人を和ませる雰囲気を持つ少女の面影が、脳裏を過った。
勝己の推測は鋭い針となり、やわらかなところの最奥まで、音なく侵入を果たした。
「……そうかよ」
ちくちくとした胸の痛みを無視するように、勝己はそう吐き捨てると、出久を置きざりにするように、足早にその場を後にした。
あの日、胸を貫いた針は抜けることなく、溶けることもなく、理解できない痛みで勝己を苛み続けた。
それが何であるのかまったくわからず、わかろうとする努力もしないまま、月日は流れた。
無視できる範囲の痛みであったことと、そうする余裕がなかったという、もっともらしい理由もある。
三年という短い時間の中、語り尽くせないことがあった。長い時間をかけても、取り戻せないことがあった。
でもそれもすべては、過去のこと。すべては、これからの未来の糧となっていく。
大きな窓から見上げる青い空に、一筋の飛行機雲。まるで、未来への道筋を指し示すように、まっすぐだ。
いい天気だ。これから、巣より飛び立つ若鳥たちの前途を祝福するかのように、静謐で清浄で美しい。
大勢の人間が行き交う校庭を、廊下から眺めていた勝己は、ぼんやりとこれまでのことを思いかえしていた。
ひたすらにヒーローになる道を目指した自分が、過去を振り返ることがあろうとは。
いや、夢はここからさらに続く。トップヒーローになるという未来は、まだ遥か先にあるのだから。
そういえば、ここはかつて出久と歩いたこともある、図書館からの帰り道だ。
夕暮れの真っ赤で静かな世界を、二人で歩いた。くだらないことを話したせいで、形容しがたいなにかを抱えるはめになった。
クソが、と小さく呟き歩き出そうとした先に、入学したころから見違えるほど逞しくなった幼馴染がたっていた。
にこ、と何の気負いもない晴れやかさで、出久が笑う。そうすると、青年というよりも、まだまだ少年らしさが滲む。
「かっちゃん」
「……ンだよ」
さっき後輩どもに群がられていたというのに、どうにかこうにか抜け出してきたらしい。ブレザーのボタンがむしりとられていないのは、入学してから鍛えた体術の賜物か。
疲れた様子もみせず、ふにゃ、と出久がほどけるように笑った。
「えっと、ほら、これで雄英ともお別れだからさ、いろんなところみてきたんだ」
「……」
いつもなら、だからどうしたくだらねえこといってんじゃねェよ、と返しただろう。
だが、ついさきほどまで思い出に浸っていた勝己にとって、それは馬鹿にすることも鼻で笑うこともできないことであった。
「かっちゃんにも、ちゃんと挨拶したいと思ってて……。よかった、ここで会えて」
ほっとした穏やかな声とともに、差し出される傷だらけの手。
「これまでありがとう、かっちゃん! これからも、お互いに頑張ろうね!」
明日からクラスメイトという枠から外れる自分たちは、いわば商売敵になるというのに呑気なものだ。その能天気さに腹がたつ。でも、悪くないとも思ってしまった。
自然と、口角があがる。
「ハッ、誰にむかっていってんだ」
「あいたっ?!」
握手を求めるその手の平に、勝己は自分の手の平を叩きつけた。小気味いい音が、廊下に響く。
急な刺激に引っ込みそうになる手を、力強く握りしめる。
はっとした顔をみせた出久を挑発するように、わらってみせた。互いの手の熱が、じんわりと混じりあっていく。かつて拒んだこの手は、こんなにも温かい。
「無様な姿、みせんじゃねーぞ」
「……うん!」
勝己が心の底から憧れた、絶対勝つヒーローの後継者として選ばれたのだから――そんな言外の意味を、出久はちゃんと理解している。強い意思の宿る瞳が、任せてほしいと生意気なことをいっている。
クソが、と心の中で毒づきながら、手をはなした。
出久が、ゆるゆると視線を落とす。
「……卒業式ってすごい」
「は?」
今しがた繋いでいた手を握ったり開いたりしながら、ぽつりと零れてきた言葉に、顔を顰める。出久の唐突な物言いには慣れたが、意味がわからなければ気持ちが悪い。
すると、出久はやたらと真剣な顔を勝己に向けた。
「いやだって、かっちゃんがあんまりにも素直だから。かっちゃんでさえ、感傷的にさせる卒業式ってすごいなって」
「……」
ひくっと勝己の頬がひきつる。こいつは最後の最後まで、どうしてこうも人の神経を逆なでしてくるのだろう。本人にそのつもりがないのが、よけいに性質が悪い。
「ちげーわ、クソが! もういい! てめェはさっさと消えろ! 帰れ!」
「うわっ?! もう、あいかわらず酷いなあ」
苛立ちのままに足を軽く蹴れば、わざとらしく出久は飛び退く。そして、肩をいからせる勝己に向かって、淡く微笑んだ。
「これでもう、終わりなんだから――……もうちょっとだけ、いいじゃないか」
力のない口調、その寂しげな様子が。どうしてだか、出久を遠いところにいるようにみせる。
ぎり、と音をたてるように胸が軋んだ。不愉快な音が、体中に鳴り響く。
自分の感情を持て余し動きを止めた勝己の視界の中、出久がぎゅっと拳を握りしめて、わずかに俯いた。やわらかな髪が、表情を隠す。
「ねえ、あの、ね……かっちゃん、僕、きいてほしいことが、あって……その、……」
その先を聞いてはならない。
勝己の野生じみた勘が、そう訴えてくる。
だが、その先が聞きたい。
どこからか湧き上がる感情が、そう叫んでいる。
心の中の違う場所から、同じ強さで勝己をひどく揺さぶってくる。
聴覚が研ぎ澄まされる。出久の一言一句を聞き漏らさないように。
視覚が固定される。出久の一挙手一投足を見逃さないように。
ふるり、と出久の身体が揺れた。
くる。
からからに乾いた口で、なけなしの唾液を飲みこんで、その瞬間に備えた。
が。
「おーい! 緑谷! 爆豪! そんなとこでなにしてんだよ! みんなで写真とろうぜー!」
窓の外から高らかにかかった明るい声に、二人揃ってはじかれたように外へと視線をむける。
いつの間に集ったのだろうか。そこには、ほとんどのクラスメイトがいた。
こちらをみつめるいくつもの瞳に、喉の奥がひきつった。
妙な緊張感が漂っていた空間が、緩んだのわかった。気まずい気持ちでゆるりと視線を前に戻せば、出久もまたこちらに目を向けなおしたところだった。
目と目があったところで、出久がくしゃりと顔を崩すように笑った。
「いこう、かっちゃん!」
そうして勝己からの返事を待つことなく踵を返し、出久は玄関方向へと駆けだした。窓の外に向かって「今行くね!」と手を振りながら。
「チッ……しゃーねぇな……」
唇を尖らせながら、勝己はその後を追いかける。
話なら、いつか気が向いたときにきいてやってもいいだろうと。
そう思った。
このとき、どうして俺は、その言葉の先をきかなかったのだろう――
指定された居酒屋の奥にある座敷から、よく知った声が賑やかに漏れ出している。
仕事終わりであるというのに、あいかわらず元気なやつらだと思いながら、勝己は引き戸に手をかけた。
黒い木戸は軽く、すらっと音なく開いた。そして溢れかえる歓声が、勝己の鼓膜を震わせる。
いちはやく勝己の到着に気付いたのは、やはりというかなんというか、切島であった。人好きのする明るい笑顔で、大きく手を振ってくる。
「おー! きたきた爆豪!」
「あいかわらずうるせーな……――あ?」
そう零しながら辺りを見回し、勝己はわずかに目を丸くした。
緊急招集! 重大発表! という上鳴からの連絡内容になにごとかと思えば、仕事帰り集まれる奴で飲み会を開催する、ということだった。
本当ならくるつもりはなかった。しかし、どうしてもと言われてやってきた、のだが。
めずらしく、出久がいる。
ここ最近、忙しそうにしていて、なかなか顔を見せなかったくせに、のうのうと部屋の隅に座っている。
女子が飲むような色合いの酒を手にして、轟と飯田に挟まれて笑っている。
勝己の驚きを表情から読み取ったらしい出久が、困ったように笑って、小さく手を振ってきた。
機嫌取りをするようなその仕草に、眉間に皺が寄る。
「おいおいバクゴー! そんな顔すんなって! あ、生? 生でいいよな? おねーさーん! 生ひとつー!」
連絡役をつとめていた上鳴が、勝己の肩を陽気に叩きながら酒の注文をする。何もいってないの勝手なことを、と思うがとりあえずはそれに従うことにした。
「おい、切島。どーいうこった」
そう言いながら、切島の前に座る。
よくみれば、かつてのクラスメイトの半数近くが集まっている。
二十代も半ばを迎え、皆、各方面でその名を挙げたヒーローたちである。よく都合がついたものだと感心する。
「ああ、実はな緑谷が大事な報告あるってんだよ。緑谷ー! 爆豪もきたことだし、いっちょ頼むぜ!」
やたらと嬉しそうな顔をした切島が、出久に向かって声をあげる。
「う、うん……!」
アルコールのせいか、緊張のせいか、よろよろとおぼつかない動作で出久が立ち上がる。
すると、全員の視線が一気に集中した。それまで賑やかだった室内が、一瞬で静まり返る。
隣の個室の声まできこえてきそうな中で、出久がもじもじと腹のあたりで手を組みあわせ、何度も口を開け閉めする。
いいたいけれど、勢いがもう少しだけ足りていないようだ。
勝己は、こめかみを引きつらせた。こちとら仕事帰りで疲れているうえに腹も減っている。
「さっさといえやゴルァ!」
拳を振り上げて励ましというにはいささか乱暴な声をあげれば、びくっと出久が肩を跳ねさせた。
「あ、ごめ……! あ、あのっ」
すぅ、と出久が息を吸う。ぐっと腹に力がこもるのが、遠目からでもわかった。
「僕――結婚します!!」
意を決し、目をぎゅっと瞑り、腰辺りで拳を握りしめた出久が天に向かって吠えた。
一拍の後、部屋全体を揺るがすような歓声が湧き上がった。
「おめでとう緑谷くん! うっ……! お、俺は、俺はっ……!」
「なんで飯田が泣くんだ? ほら、おしぼり」
なぜか感極まったらしく滝のように涙を流しはじめた飯田の顔を、轟がそのあたりにあったおしぼりで乱雑に拭く。
「チックショオオォォォ! 緑谷に先越されるとはー!」
「峰田ちゃんはガツガツしすぎなのよ」
テーブルに突っ伏し「裏切り者!」と罵りながら泣き喚く峰田に、いつもの淡々とした様子で蛙吹が声をかけている。
「同級生の中で一番が緑谷かー。俺はてっきり瀬呂だと思ってたんだけどな~」
「タッチの差だって。ご祝儀はずんでくれよな」
予想が外れたと笑う上鳴に、瀬呂がニヤリと笑った。このぶんだと出久の次は、瀬呂なのかもしれない。
ぎゃあぎゃあとズルイだの羨ましいだの、かつての高校生活を思い起こさせるやりとりをする二人の声をききながら、勝己は振り上げていた拳をおろした。
なんだこれは、きいていない。おれは、そんなことひとつもしらない。
胸が、さきほどの出久の言葉に貫かれた気分だ。ぽかりと大きな穴があけられてしまった。
「おい……どういうことだ」
「いやいや、それがさー」
掠れた声にわずかな震えを交えて問いかければ、ほどよく酔っている切島が、上機嫌に語ってくれた。
二十歳になる頃のことだ。
とある犯罪組織とのヒーローたちの戦闘があり、各地から選りすぐりのヒーローたちが緊急招集された。
そのとき、この戦闘に巻き込まれた一般人が何人もいた。
出久が結婚するのは、そうした被害者の一人なのだという。
敵犯罪の被害者のケア活動をしていた出久が何度も病院と訪れるうちに親密になり、駆けだしルーキーだった出久を影に日向に支え、こうして結婚にまで至ったらしい。
「しらねえぞ、そんなこと」
高校時代に抱いていた、同級生への淡い恋心はどうした。そう思わないでもないが、社会人ともなれば人との交流も増えるものだ。どこかで自分の恋に折り合いをつけ、別のだれかに心動かしたとしても、さして不思議なことではない。
「緑谷も、いまや押しも押されぬトップヒーローだからな。隠してたんだろ。俺も今日教えてもらうまで、ぜんぜん知らなかったからよ、すっげー驚いた! でも、めでたいよな!」
「……」
勝己は黙りこむ。
めでたい。それはそうだろう。なにせ、人生の一大イベントだ。
だが、それは出久が誰かのものになるということにほかならないではないか。
高校生の頃に胸を刺した痛みが、一呼吸ごとにひどくなっていく。眉間に、どうしても力がはいる。
そういえば、この痛みは卒業式後に出久と比較的穏やかな関係となってから、あまり感じていなかったように思う。
現場で顔をあわせれば、幼いころのようなやりとりを交えながらも共闘することがあるし、一年に数度開かれる元クラスメイトたちの集まりでは普通に酒を酌み交わしてきた。
腹のたつことも多かったが、社会人という立場がほんの少しだけあけた距離が、心地よかった。関係は、悪いものではなかった。
しかし、勝己はきいていない。これはつまり、出久にとって、勝己はわざわざ教える必要がない立場であったことを暗に示している。
幼馴染で元クラスメイトで、同期のヒーロー。出久にとっては、ただ、自分はそれだけのものだったのだ。
それが当然だろうと思う心と、相反する感情に目が回りそうだ。
「えっと、みんなに招待状おくるから……結婚式、よかったらきてね!」
どこで出会った、どんな人なの? などと質問攻めにあっていた出久がそんな声をあげると、集った者たちは一様に笑顔を浮かべた。
「もちろんだ」
「絶対行くぞ、俺は!」
「おめでとう、緑谷ちゃん」
当たり前のように、そんな声があがる。祝福で満たされた部屋の中、勝己は呼吸の仕方さえ忘れてしまうほどの胸の痛みを抱え、唇を噛みしめていた。
嫌だ。いきたくなどない。届いた瞬間爆破してやりたい。
理屈や正当性なんてどこにもないことぐらいわかってはいるが、感情が拒絶している。絶対に、嫌だ。嫌だ。
自分でも制御できない気持ちをもてあまし、勝己は揺らぐ視線を巡らせる。
その先にいる出久は、勝己のほうをみていなかった。そのことに、また得体のしれない痛みが増す。
照れくさそうに頬をかきながら笑って、皆からの祝福を幸せそうに受け取っている。
こちらなど、まったく眼中にない。腹が立つ。悔しい。
奥歯を噛みしめて震える勝己の前に、さきほど上鳴が頼んだ生ビールが運ばれてきた。
「このクソがっ!」
勝己はそれをテーブルの上からひったくるようにして一気にあおった。冷たさと苦味、そして炭酸の泡が勝己の喉を滑り落ちていく。労働のあとの酒はうまいはずなのに、今日はどうしてだか味気ない。
ごっごっと喉をならして飲み干していく姿をみて、切島が顔を輝かせる。
「おーおー、さすが爆豪! いい飲みっぷりだな! 俺も負けてらんねえ!」
つられたように、手にしたビールのジョッキを切島が飲み干した。
別の飲み比べを挑んだわけではないのだが、気付けば勢いのまま飲んだくれていた。
これがいわゆる自棄酒だったのだと、翌朝二日酔いの頭を抱え、勝己は思い知ることととなる。
「かっちゃん、だいじょうぶ?」
「うっせ……クソデク……クソがっ……」
ぐるぐると思考がまわっている。ついでに景色もまわっている。地面がふわふわとしていて頼りない。もうちょっとシャキっとしろや地球。
違う、違う。自分の足がおぼつかないだけだ。飲みすぎた。正常な判断ができない。
だって、そうでなければ、出久の肩を借りて帰路につくなど、受け入れるわけがないのだ。
ぐったりと、身体のほとんどを預けているにも関わらず、出久はびくともしない。
居酒屋の料理と酒の匂いの合間に、子供っぽい出久のにおいが混じっている。なんだかむしょうに泣きたくなった。
「まさか、かっちゃんが酔い潰れるなんてねえ」
「俺ァ、酔って、ねえ……!」
「ちょ、ちょっと! 頭殴らないでよ!」
しみじみと呟かれて苛立った勝己は、出久の頭を力の入らない手でポコポコと殴った。
「はー……もう。ね、ちょっと疲れたから休憩しよう?」
「……あ?」
もうすぐ勝己のマンションだ。だが初めてそこに向かっている出久には、そんなことはわからないのだろう。
だが、少し休めばこのみっともない状態も改善されるかもしれない。勝己にも異論がなかったため、進路が変更される。
小さな公園のベンチに腰掛ける。かつて子供の頃に遊んだ場所より少し狭いだろうか。帰り道ではあるけれど、一度もはいったことなどなかった。
「はい、お水」
いつの間にか用意していたらしいペットボトルがさしだされた。
「……」
勝己は無言で蓋のあけられたそれを掴みとると、中身を喉を鳴らして飲んでいく。
アルコールの含まれていない清涼な水が、喉を滑り落ちていくのが心地よい。
最後の一滴まで舌で受け止め、勝己はゆっくりと手を下した。
ふ、と吐息を漏らしながら、口元を拭う。
隣に腰掛けた出久が、空になったペットボトルを回収していく。
ぼんやりとその顔をみつめれば、自然と言葉が溢れだした。
「けっこん、すんのか……」
「うん」
暗い夜空を見上げながら、出久はあっさりと肯定した。
ぐ、と勝己の喉が鳴る。昔から、こうと決めたらそうそう覆すことなどない出久のことだ。本気なのだ。
「まだ……ナンバーワンヒーローになれてねぇ、くせに」
「そうだね。でも、彼女がね、結婚したいっていうんだ」
は、と酒臭い息を肺から押しだし、勝己は馬鹿にしたように口を歪めた。
「女のいうこときくんかよ」
尻に敷かれているなんて、女慣れしていないクソナードらしいなと、そう小馬鹿にする間もなく、出久が口を開いた。
「かっちゃんは、知ってるだろ。僕が、もともと無個性だってこと。そしていつかは、無個性にもどるってこと」
「……」
軽い調子で、この世界で知る者が少なくなったあの秘密を言葉にされて、勝己はわずかに目を見開いた。
「だからね、僕は結婚はしないだろうなって、漠然と思ってた」
「――なら、」
よけいに、どうして。もう一度そう呟いた勝己に、出久がほんのりと笑った。
「僕、彼女に言ったんだ。生まれつきの理由で、子供をもうけるつもりがないってこと」
いつから、そう決めていたのだろう。それを告げることに、どれほどの勇気が必要だったろう。個性に恵まれた勝己にとって、それは想像すらできないことだ。
「でもね、私は子供が欲しくてあなたと結婚したいんじゃない、あなたが世間がいうほど裕福でないことも知ってるって、笑って言うんだよ」
敵との戦いに巻き込まれて怪我をして、塞ぎこんでいた私を救けてくれた優しいあなた。私は、そんなあなたの救けになりたい――そういったのだという。それはまるで、聖女のような物言いだ。
「正直、こんなこといってくれるひとには、もう会えないかもって思っちゃった」
「……そうかよ」
それなら自分でもいいじゃねえか、とそう言いかけた言葉をすげかえて、勝己は息を吐く。
酒のせいだ。こんなことを思うなんて。悪い飲み方をしてしまったと、後悔しても遅い。
それまでずっと空を見上げていた出久が、ふいに勝己へと視線をむけた。滑らかな仕草で首を傾げ、大事なものをみつめるように瞳が柔らかく細められる。
「かっちゃんだって、いつか結婚するでしょ? そのときがきたら、ちょっとくらいは僕の気持ちわかるかもしれないよ。ああでも、かっちゃんが尻に敷かれてるところは想像できないや」
結婚なんてしねーよ、と口から飛び出しかけた言葉を、勝己は口内で噛み殺した。
「ハッ……デクのくせに生意気」
勝己はそんな自分を誤魔化すように、前髪を乱雑に掻き交ぜる。そのまま、ずるりと手を下げて、目元を覆った。
「結婚に生意気もなにもないでしょ……。いい歳した大人だよ、僕たち」
「……」
そうだ。俺たちは大人だ。勝己の後をついてまわった幼いころの出久はおらず、勝己に怯えた姿をみせた少年期の出久もおらず、ヒーローを目指したあの日々をともに過ごした出久もいない。いないのだ。
そう理解した瞬間、肩の力が抜けた。
ここでようやく、ずっと自分の胸に刺さっていたものがなんだったのか、勝己は気づいた。
恋だったのかは、わからない。
愛だったのかといえば、それもわからない。
筆舌に尽くしがたい喪失感に、体が崩れていってしまいそうだ。
勝己は無意識のうちに、出久が誰かと人生を共に歩む日がくるなんてないと、そう思っていたのだ。
出久は自分の人生の道に勝手に居座って、うろちょろして目障りで。突き放しても吹き飛ばしても、気づけばずっと傍にいた。だからきっと、これはこういうもので、これから先もずっと続くものなのだ、と。
それがどれだけ滑稽で身勝手な思い込みだったのかを目の当たりにして、醒めてきたはずの酔いがぶり返したような、ひどい眩暈を覚えた。
なんだ。俺は、馬鹿か。いや、馬鹿だ。
もう手に入らない段階になってようやく、屈折したこの思いに気付いた。認めることができた。
それは長年抱いていたものの解答であったけれど、こんな想いに向き合うことになるくらいなら、死ぬまであの痛みの原因など知らぬままでいたほうが、マシだったろう。
心の片隅が、ころりと零れ落ちていく。死んで剥がれた心が落ちていくのは、絶望という名の谷底だ。光さえも届かない場所で、からんと乾いた音がたつ。
「クソが、死ね……」
ふいに溢れた言葉を紡ぐ声は、みっともなく震えていた。出久は、なにもいわない。ただ、黙って勝己の言葉を待っている。
ならば、せめてこういわなければ、なけなしのプライドさえも粉々に砕けて消える気がした。
「幸せにならねーと、殺す……」
「……うん」
ありがとう、と。夜風に髪を遊ばせながら笑った出久を抱きしめられたら、どんなによかっただろう。
勝己は手をおろして、星の見えない夜空を仰ぐ。
己が心の片隅を、いつしか占拠していたものは、なにかになりたいと訴えていたのに、なにものにもなれず死んでしまった。
そう思い知るには、穏やか過ぎる夜だった。
白いタキシードを着こなし、いつもは毛先があちこちに向いている髪を綺麗に撫でつけ、緊張みなぎる表情をした出久が、ヴァージンロードを静々と歩いてくる女性を待っている。
大きなステントグラスは、晴れやかな空から降り注ぐ光にゆらゆらと鮮やかに揺れている。これから生涯の誓いをたてるにふさわしく、厳粛なこの場はただひたすらに美しい。
勝己は、まるで映画でもみているようだと思った。
没頭している間は夢中になれるかもしれないが、ふとした瞬間に我に返ってしまう。
そうするともうだめだ。自分もこの素晴らしい映画の一員であるはずなのに、遠いどこかで撮影されたものを見るだけの観客になる。
父親から娘を託された出久が、花嫁を促す。汚れ一つない純白のウエディングドレスを綺麗に着こなした花嫁と、花婿である出久がそろったところで、神父が誓いの言葉を述べ始める。
幸せそうなその光景に、浮かぶのは苦い笑いだけだ。見ていられなくて、眩しいものに対するように、勝己は目を細めた。
指輪の交換を済ませ、出久が震える指先で繊細なヴェールを持ち上げる。
美しく化粧を施された女は、やわらかに微笑んで、出久を待っている。
ちょっとだけ緊張したような気配を滲ませながら、出久は目を伏せて唇をよせた。
誰も立ち入ることができない神聖な誓いをかわす二人の姿を、勝己はその目に焼き付ける。
これが、俺が得られなかったもの。つかめなかったもの。出久に与えることなど、できるわけのないもの。
祝福の声と軽やかな拍手が、聖なる場所で木霊する。
式をつつがなく終えて、花嫁と寄り添いながら歩く出久が、勝己の横を通り過ぎていく。
ああ、これで、さようならだ。
恋という名も、愛という名もつけてやることができなかったもの。俺の心の一部。
開いた扉の向こうから差し込む光の中にたたずむ出久の背中をみつめながら、勝己はあの夜から抱いていた亡骸に決別する。
ゆるりと閉じられる扉。瞳から零れ落ちた涙は、何に対してのものなのか、勝己自身にさえもわからない。
晴れやかなこの日、勝己は己の感情が遠いどこかへ旅立つのを、一人静かに見送った。
憂鬱だ。
海外から取り寄せたソファに身を預けながら、勝己は気だるくテレビをみていた。
大きな画面には、ちょうど一年前に起こった大規模テロ事件の特集番組を映し出している。
襲撃にあったのは、公園で催されたチャリティイベントだった。穏やかな休日の楽しいひととき。そんなことが起こるなんて、誰も思ってなどいなかっただろう。
テレビでは テロ鎮圧にあたったヒーローたちの活躍、テロ首謀者たる敵がいかに非道であったかが語られ、それにより被害をうけた燃える町並みの映像が流れていく。
ヒーローにより救助されていく人々と、治療にあたる救助隊の様子、何度も現場と病院を往復する救急車。
遠くから響く爆発音は、事件の真っただ中にいた自分のものなのか、犯人があちこちに仕掛けた爆弾によるものなのか、判然としない。
混乱した現場の映像がおわる。そして、アナウンサーが悲しげな雰囲気を醸し出しながら、負傷者と死亡者について言葉を紡ぐ。
胸糞悪い。吐き気がする。
きっと今日は、あの事件に関わった者すべてが、救えなかったものの大きさと重さを、思い出していることだろう。
その中でもひときわ、消えない記憶として残っているもの。
すべてのことが終わって、物言わぬ姿となった女を抱き、慟哭する一人のヒーロー。
「――クソが」
幸せだったんだろうが。なんで、なんで――こうなりやがる。
忘却の彼方に押しやることができないあの姿に、息の仕方がわからなくなる。
番組は、テロ事件の概要を語り終え、今はその時活躍したヒーローたちの話に移っていく。
平和の象徴ヒーローデク。
偶然現場を訪れ巻き込まれた妻を失いながら、今も人々を救うために精力的な活動を続ける彼のことを、まさにトップヒーロー、平和の守り手だと、美談として語っている。
ふざけるな、と思った。
誰もが気づいていない。日に日にあの瞳の奥が暗く沈んでいくことを。濁っていくことを。
ほらいまも、昨日のヒーローインタビューのデクを流しているけれど、まったく、笑ってないだろうが。
誰も彼も、わかっていない。
ぎり、と勝己は奥歯を噛みしめながら、力いっぱいリモコンの電源ボタンを押した。
キャップをかぶりマスクをつけて、一見すれば有名ヒーローとはわからないような服に身と包んだ勝己は、とあるビルの前にたっていた。
平和の象徴が所属するヒーロー事務所がはいっている建物の上層部を、睨み付けるようにみつめる。
夜勤ではないことは調べ済みである。今日は敵による事件の発生件数も少なかったから、事務処理もほとんどないはずだ。
となれば、もうそろそろ。
勝己のそんな予想どおりに、数分後、自動ドアが左右に開いた。
ゆっくりとした足取りで出てくるのは、自分と同じようにキャップを目深にかぶった一人の青年だ。
前を見ることなく、足が覚えているのだろう帰路を辿ろうするその前に、無言で立ちふさがる。
「う、わ……?! ご、ごめんなさ――え? かっちゃん……?」
「……」
気配を消し、素早く進路に割り込んだせいか、出久がぶつかりそうになる。反射的に謝って顔をあげた出久の瞳が、大きく見開かれた。
なんでここに? どうしてここに? なにをしにここに?
次から次へと沸いては消えていく疑問が、その目の色に映っているような気がした。
目の下には色濃い隈が居座り、生気が足りていないのか、顔色がどうにも悪い。
「おい、デク」
びくっと出久が肩を震わせる。猫背気味だった背が、わずかにのびた。
「ちょっと付き合え」
どこにとも、なににともいわず、ただそれだけを命じた。お前に拒否権などないのだと、声音に滲ませた。
一瞬固まってあどけない瞳をみせた出久は、すぐに力なく頭を振った。
「……ごめん。僕……家に帰らなきゃ……」
「帰ったって誰もいねえだろうが」
「……」
ぐ、と出久が唇を噛みしめる。
出久の妻であった女の遺骨は、両親がもっていってしまったらしいと噂できいた。
お前のような男に娘を託さなければよかった、どうして娘をたすけてくれなかった、どうしてそばにいてやってくれなかった、と――そんな言葉を幾度も幾度も、叩きつけられたとも。
ゆえに、勝己は出久がなにを言おうが、誰も待っていない家に帰すつもりなど、毛頭なかった。虚しさと寂しさと後悔しか出迎えないところに、こんな幽霊みたいな顔をした出久を帰したところで、余計ひどくなるだけだ。
今日は絶対に、帰らせない。
勝己は一歩前にでると、委縮した様子をみせる出久の腕を強引にとって引き寄せた。
たたらをふんだ出久が、困ったように勝己を見上げた。
「てめえの意見なんざきいてねェよ」
「ほんとに、もう……かっちゃんは、あいかわらずかっちゃんだね」
しょうがないなぁと言いながら、へらっと笑ったその顔がひどく弱々しくて、嫌になった。どうしてこんなになるまで、誰もなにもしなかった。いや、それは自分も同じか。
だが、今日はもう腹をくくった。このしょぼくれた平和の象徴サマに、渾身の喝を入れると決めている。
余計な世話かもしれない、出久は望んでなどいないかもしれない、柄ではないこともわかっている。しかし、ほうっておくことは、もうできない。この一年、無理やりに走り続けたこの男を、蹴ってでも殴ってでも、止めてやる。
勝己は深く息を吐いて、もう一度言う。
「こい」
「……うん、わかったよ。わかったから、さ。腕、離してくれる?」
なにが出久の心のどこかに響いたのか、まるでつきものが落ちたかのように、出久は勝己の言葉を受け入れた。もしかしたら、もうなにもかもどうでもいいのかもしれない。
勝己にふれられたところをやんわりと撫でながら、出久はいう。
「ちょっと痛かったよ」
「鍛えかたが足りねえんだろ」
「……そうかもね」
反論するでもなく、淡々と静かにそう応える出久に背を向ける。
出久は己の言葉を違えるつもりはないようで、黙ったまま勝己のあとをついてくる。
そこから勝己のマンションに到着するまで、二人は一言も交わすことはなかった。
む、と勝己は眉根を寄せた。
出久をマンションまで連れてきて、物珍しそうに部屋を見回しているところを無理やりソファに座らせて。今日のヒーロー番組を観させているうちに夕食を作った。
そして、どうして勝己がこんなことをするのか理解できないようで、ひどく困惑している出久をまたしても無理やりテーブルにつかせた。
目の前には腕によりをかけてつくった料理の数々と、炊きたての白いご飯と味噌汁。これを喜んで食べない日本人などいないと断言できる、
きっと出久も飯を食えば、少しはマシになるだろう。そうしたら、とっておきの酒でも飲みながら話しをして――と勝己は思っていた。
だが、出久はいつも勝己の予定をぶち壊していく。昔も、今も。
ぎりりと奥歯を鳴らす。
勝己の全身から溢れる怒気を感じ取ったのか、射殺さんばかりの苛烈な視線に気づいたのか、出久がぎこちない笑みを浮かべた。
「あ、えっと……! その、ごはん、おいしいね」
「嘘つけ。全然食ってねえじゃねえか」
勝己はもうほとんど食事を終えているというのに、出久の前にだされたものはまったくといっていいほど減っていない。一応だしておいたビールにも、口をつけていない。
出久は、食べることも飲むことも嫌いではなかった。つまり、あれ以来、ずいぶんと食が細くなってしまっているということだ。
さきほど掴んだ腕の感触を思い出す。こいつの腕は、あんなにも細かっただろうか。
ごめんね、と出久が笑う。
「なんか、さ。あんまりお腹すいてなくて。でもほんと、おいしいよ」
お昼に食べたカツ丼のせいかな、と言っているが絶対に嘘だ。もともと嘘が下手なくせに、そんなに視線を泳がせて言っては、幼子だって騙せないだろう。
のろのろと白米を口に運び、味噌汁に口をつける様子をじっと眺める。
疲れの見える目元、生気の乏しい肌、唇は遠目からみても乾いて荒れている。体型はそんなに変わっていないと思ったが、よくよくみれば少しばかり小さくなったような気がする。
それでもせっかく用意してくれたからと懸命に食す出久であったが、やがてもうお腹いっぱいというように、箸をおいた。
「もういいんかよ」
「うん、あんまり食べられなくてごめん。ご馳走様でした」
勝己の問いかけに、感謝をあらわすように出久が丁寧に手をあわせる。その左手の薬指に、鈍く輝く指輪がみえた。
「あっちいっとけ」
視界にいれておくのが嫌で、勝己は顎をしゃくってソファを示す。
だが出久は、眉を下げて慌てて立ち上がった。
「僕、片づけるよ」
「いーから座ってろや、クソが」
有無を言わせず、出久の前にある食べ残しの乗った皿をかっさらう。
さっさといけ、と睨み付ければ、出久が笑った。ここで意地をはって主張しても、勝己には逆に迷惑であると思ったのだろうか。
「……ありがとう」
そう囁いて席を立ち、ゆっくりと歩き出した出久を、勝己はテーブルの上を片づけながら見送る。食べないところをみてしまったせいか、出久の背中が弱々しくみえた。
後片付けを完璧に終えた勝己は、この家にある一番高い酒をグラスに注いだ。しゅわり、きめの細かい泡がたつ。
それを手に持って、ソファへと向かう。
出久は、せもたれに身体を預け、テレビをみつめていた。
ガラスのローテーブルに酒のはいったグラスを置き、出久の隣に腰掛ける。
ヒーロー番組は終わり、動物番組が流れている。
たくさんの子犬たちが、タレントめがけて走ってくる。ころころとした愛くるしい子犬に、歓声があがった。
勝己が隣に座ったことなどわかっているはずなのに、出久は一瞥もよこさず、ぼんやりとテレビ画面を眺めている。
「彼女ね……」
ぽつり、落ちてきた言葉に、勝己の片眉が跳ね上がる。
出久が「彼女」とやわらかに呼ぶのは、かつて妻であった女ただひとり。
意識的にしているのか、無意識なのか、出久は指輪を指先でなぞりながら言葉を紡ぐ。
「僕と飼う犬をさ、あのイベントでひらかれていた譲渡会に探しにいってたんだ」
そうか、と勝己は小さく応えてやるが、そのことは知っていた。テレビで散々流されていた話だ。いまさらだ。だが、当事者から語られる重さは、その比ではなかった。
「僕も、ほんとうは一緒にいくはずだったんだ……」
同級生たちの誰にも、出久はそのことを語ったときいたことがない。話すつもりがなかったのだろう。誰もきけないし、誰にもはなすことはなかった、事実。
「でも、急な出動要請がはいって、」
そこで一瞬言葉を詰まらせた出久の瞳から、ぼろりとひとつ涙が零れた。
「……いってらっしゃいって、笑っていってくれていたのに。今日の夕飯はカツ丼にしようかって、笑ってたのに」
なにをいえるわけでもない。無言のまま、勝己は出久の頬に手を伸ばした。
勝己はただ、声をあげられぬまま、心の中で慟哭する出久の隣にいることしかできない。
まさか涙を拭われると思っていなかったのか、出久が弾かれたように勝己をみた。
成人男性にしては童顔すぎる顔に手を添える。親指で涙のあとを拭ってやると、目に見えて出久が狼狽えた。
「ご、ごめん、変な話しちゃって……!」
ぱっと手を払い、身をひいて距離をとった出久が、目を泳がせ早口で問う。
「そ、それで、今日はどうしたの? かっちゃんが、こんなにしてくれるなんて。なにかあった?」
「……」
言いたいことは、たくさんある。でも、今の出久の心に届くような言葉は、出てきそうにない。いつまでも、グズグズとしている性根を叩き直してやろうと思っていたはずなのに。まさかここまで、過去に浸っていようとは思っていなかった。
ああ、どうしたらこいつは、「今」ここにいる「俺」をみるのだろう。
わからなくて、わからなくて――わずかに唇を動かすだけしかできない勝己を、出久は気力の乏しい瞳に映している。
だめだもう。ひきあげる言葉がみつからないならば、行動するのみだ。
「……こういうこった」
勝己は身体をずらし出久と距離をつめると、覆いかぶさるようにして、その唇を塞いだ。触れるだけだ。すぐに、顔を離す。
出久が、彫像のように固まっている。なにをされたのか理解が追い付いていないのだろう。
はじめて触れた他人の唇は、やわらかさよりもかさついた感触のほうが印象に残った。不思議と、嫌だとは思わなかった。
自分のその感覚を確認するように、もう一度口づけた。
出久の生白い顔に、ほんのりと血の気が戻ってきたような気がする。
満月のように丸くなった瞳の奥底は相変わらず濁ったままだったが、ぽかりとあいた口が間抜けで、おかしかった。
震える出久の唇が、ひきつった声を漏らす。
「かっちゃん、こういう趣味だったの……?」
「ちげえ。デクだから」
そういって、もう一度口づける。
擦りあわせるようにしてから、ほんの少し距離をとれば、出久が吐息を漏らした。
「……馬鹿にしてるの?」
「そんなんじゃねえ」
馬鹿になどしていない。むしろ、馬鹿にするためにこんなことをする人種と思われたことに腹が立って、眉間に自然と皺がよる。
もう一度、次はもう少し深いところに触れてやろう。そうしたら、今度は違う言葉がでてくるかもしれない。
そう思って唇を寄せれば、出久が息を詰まらせ肩を跳ねさせた。
「っ!」
ぐっと力任せに身体を押しのけられて、勝己は息を詰まらせた。
それでも外さなかった視線の先で、出久の表情がみるみるうちに変わっていく。
悔しい、悲しい、辛い、意味が分からない――そういったものが一瞬にして溢れだし、ぐちゃりとその表面で混ざり合う。
みているようでなにもみていなかった瞳に、怒りの炎がちらついてみえた。
ぞく、と勝己は背筋を震わせる。
そうだ。この目だ。これこそが、緑谷出久のふさわしい。
きっと、敵がこの相手には絶対に勝てないのだと思い知らされる絶望の瞬間は、こんな感じなのだろう。
ふ、と口の端がもちあがるのがわかった。
それをみた出久が、ぎりと奥歯を噛みしめる。ぼろり、と大粒の涙が溢れだす。
ぼんやりとその美しさを目で追いかけると、胸倉が捕まれた。あまりの素早さに反応が遅れた勝己は、けほ、とわずかに咳き込む。
「なんで、こんなことするんだよ?! なんでっ……! いまさらそんなこというんだよ!?」
喉が裂け、血が噴きだしてきそうなその慟哭を、勝己は黙って受け止める。
「君がっ! あのとき好きな女の子がいるっていったから!」
その叫びに、あの夕暮れに満たされた学校を思い出す。
「僕は、応援しようって思ったんだろ!」
ふたりきりで歩いた、あの廊下。交わした言葉。赤い色彩。風の匂い。
すべてが、まざまざと蘇ってくる。
あの時、俺はなんと言ってしまった?
「でもそれと同じくらいに、嫌だって思ってたのに! 伝えることも諦めたのに!」
あのときの、嘘ではないが真実でもない言葉を思い出して、勝己はその苦さに顔を歪めた。
「僕も知らなかった僕の想いを、あっさり殺していったくせに、なんでいまさらっ! こんなときにっ!」
勝己を睨み付けることはやめず、ぼろぼろと涙を零しながら嘆く出久の姿は、誰かを想う気持ちを殺されてしまった被害者そのものだ。
勝己は、自分の軽率さと若さを呪った。
「死んでしまったものは、もうもどってこないんだよ! やりなおせない! いきかえったりなんてしない!」
だからあのときの感情も、もう抱くことはないんだと突き付けられて、頭に血が上った。
「うるせえ! ンなこたあ、わかっとるわ!」
勝己だってそうだ。出久の結婚式に、自分の想いと永久の別れを済ませた。もう二度と、戻ることはない。
「それでも――あったことはなくならねえだろ。テメェだって、ここにあったことは残ってるだろ」
出久の無防備な胸に手の平をあてる。それだけで伝わってくる強く速い鼓動に、こいつも自分と同じ感情を持て余していると悟る。
勝己は、もう一度、出久に唇をよせる。力なく顔を背ける出久を、逃がすまいと追いかける。
「やめて……――僕は、彼女を愛しているんだ……」
それは、出久が自分にかけた呪いだ。そしてなにより勝己の心を切り裂く刃だ。
「関係ねェ」
そう囁いて、何かまだいおうとする唇をふさいだ。
ん、と鼻にかかった声をあげる出久の手をとる。
ゆるゆると撫でさすり、するり、と出久の指から銀の指輪を抜き取った。痩せた指から奪うのは、笑えるほどに簡単だった。
「!」
結婚指輪を失ったことに気付いた出久が、慌てて勝己の身体を押しのけた。
「やめてよ……!」
「全部、俺が悪ィ」
ぽちゃん、とまだ口も付けていなかった酒に、勝己はそれを落とした。
グラスの底に沈み、無数の泡を纏う指輪は、どこか遠い世界にあるもののように見えた。
「ちがう、かっちゃんは、悪くない……!」
「なにもかも俺のせいにしとけ」
ここまでされておいて、かたくなに君は悪くないなんていう馬鹿を抱きしめる。ここまでお膳立てしてやったのだから、全部お前のせいだと言えばいいのに。
「やだ……!」
「弱いところにつけこむ悪いヤツが、いうこときくと思うのかよ。嫌なら力づくでこいや」
わけのわからない状況に混乱しているせいか、薄っすらと色づいた出久の耳に唇を当てて、そう吹き込む。
びくりと身体を跳ねさせた出久は、いやいやと子供のように頭を振った。
「なんだよ、それ……かっちゃん、は、ヒーローだろ……!」
ここまでした自分に対して、まだそんな清廉さを求めてくることに吐き気がする。ほんとうにこいつは、わからずやだ。
勝己は忌々しげに目を細め、口元を吊り上げてそんな出久を嗤った。
「こんな独りよがりの感情しかもたねぇヤツが、そんな綺麗なモンなわけねえだろ」
そもそもヒーローとして出久をどうこうしたいと思ったことなどない。爆豪勝己というただの人間として、出久をどうこうしてやりたいのだ。
ここでようやく、勝己の本気を理解したのか、出久の喉がひゅっと無様な音をたてた。それがすこしだけ、勝己の気をよくしてくれる。
「なあ、堕ちろよ、ヒーロー」
遠いあの日、聖女といわんばかりの顔をして、わけのわからぬことを説いたあの老女のように、勝己はうたう。
「愛をしってるおまえなら、ここまで何のためらいもなく、きてくれんだろ?」
救けを求めるなんて心底嫌だし、このうえもなく癪だけれど、それでお前がこの腕の中に落ちてくるなら、それでいい。
「かっちゃん……」
「教えてくれよ、愛ってやつを」
俺を救ってみせろと傲慢に言い放ち、勝己は出久の身体を、ひときわ強く掻き抱く。
だが本当に救われたいのは、自分ではない。
もうこれ以上、壊れてしまうことのないように。傷つけられた恨みでもなんでもいい、「今」がみえていないこの馬鹿に、執着するなにかを与えたかった。
「ひっく、ふ、……う、ぅ……」
腕の中、身を縮め泣きじゃくる出久を、無理やりに抱き上げる。
鍛えた成人男性はさすがに重いが、こちらもトップヒーローなのだ。根性で寝室まで連れ込んだ。
泣こうが喚こうが、絶対に逃がしてなどやるものか。
出久をベッドの上におろし、のしかかる。
顔を隠す腕を力任せに引きはがし、シーツに押し付ける。そうして、過呼吸一歩手前の荒い息を繰り返す唇を塞いだ。
んん、とくぐもった声をあげ、顔を左右に振って逃れようとするのを許したくないのに、不慣れな勝己にはそれができない。どこかで経験でも積んでいればまた違っただろうが、これまでにそういったことに興味が湧かなかったのだから、仕方がない。
顔を逸らした出久が、大きく息をしながら涙目で睨み付けてくる。
「やめろ、ってば……! かっちゃんは……! 慣れてるかもしれないけどっ、」
ぼろぼろと涙をこぼして出久が叫ぶ。
「僕はそうじゃない……! お、男同士で、なんてっ」
力を込めて暴れ出そうとする出久の耳に、唇を寄せて囁く。
「……誰が経験あるっていったよ」
へ、と間の抜けた声があがった。わずかに顔をあげれば、大きな目をさらに大きくして、出久が絶句していた。
「なにもかも今日がはじめてだわ、クソが。文句あるか」
「え、は……? お、女の人、とも……?」
不機嫌さ全開で頷く勝己の告白についていけていないのか、出久が言葉にならない声をあげる。
「ちょ、ちょっと待って……それなのに、あっ、こんなこと、するなんて……ちょ、」
その隙を逃すつもりなどない。頬に口づけ、その首元に顔を埋める。すぅ、と息を吸い込めば、出久の香りが鼻腔を満たしてひどく興奮した。
嫌なのか、くすぐったいのか、身をよじる出久を押さえつけて堪能する。自分にこんな変態じみたところがるなど知らなかった。
まだ満足していないが、さすがに押さえつけるのも疲れてきたところで顔をあげる。出久は、今にも熟れ落ちそうなくらいに真っ赤な顔をしていた。
「や……! っ?! ひっ、か、かっちゃ……?!」
もがく出久の足が、勝己の昂りに触れた瞬間、ひきつった声があがった。心底困ったように恥ずかしそうに情けなく眉をさげ、触れてしまった勝己の熱と顔を見比べている。
ああきっと、こんな情けない顔――女には、みせていなかっただろう。
そう思うとたまらない気持ちになった。誰も知らない出久の姿を、引きずり出せたことに、さらに高揚する。
「そ、そんなに、僕、がっ……ん、」
余計なことを言い出す前に、濡れた唇を塞いだ。
キスも、数回こなしただけだがにコツは掴めたような気がする。強引に滑り込ませた舌先で、出久の反応を確かめながら内側を探る。上顎をなぞると、ん、ん、と力の抜けた鼻にかかった甘い声があがる。
なるほどな、と学習をしながら顔を離した。懸命に酸素を取り込もうと胸を上下させる出久を、ぎろりと睨む。
「失敗しても笑うな。笑ったら殺す」
「……僕、だって……、こんなの、はじめてだよ……」
くしゃり、と出久が顔を歪めた。前髪の合間から除く額に、自分のそれをこつりとあわせて、勝己は唸るように言う。
「女を知ってるだけでじゅうぶんだろ」
「……っ、」
勝手は違うかもしれないが、他人の肌を知っている経験値は、腹が立つが今の出久のほうが上だ。比べること自体、おかしな話かもしれないが。
勝己は、はだけた服の裾から出久の肌に手を滑らせた。そして顔をしかめる。
思っていたよりも、出久の身体が細い。この一年、自身をおろそかにした生活を続けていれば当然だろう。
「あっ、あ……!」
「デク」
手のひらで撫で上げ、反応のよいところを指先でじっくり焼くように触れていく。
「かっちゃ、かっちゃん……!」
ぎゅっと目を閉じ、強引に与えられる感覚に震える出久に口づける。握りしめられた左手を開かせて、薬指の根元になにもないことを教えるように、嬲った。
「うっ、ううっ……」
ぽろぽろと涙をこぼす出久の耳元に、唇を寄せる。
「デク……テメェは、いくんじゃねえ……」
どこにも行くな、先にも逝くな。
ここからどこにも、俺を置いて消えていくなと、キスの合間に何度も何度も囁いた。
朝起きたら、誰もいなかった。
時計を見ればいつも朝のランニングに出ている時間をとうに過ぎていた。だが、どうにも起き上がる気力がない。
当然の末路だな、と。出久を抱いたベッドの上、ひとり横たわったまま、勝己は自分を嗤った。
有無を言わせず出久を家につれこんで、一方的な言葉を叩き付けて、その身を暴いた。
そんな自分が、何も言わず姿を消した出久に何をいえるわけもない。
眠っているうちに殺されなかっただけマシだろう。ヒーローデクがそんなことをするわけがないが、それくらいのことをした自覚はある。
ああ――愛なんて、しらなければよかった。
あの老女が恨めしい。何が、愛をしらなければいけません、だ。
こんなにも後悔し、みっともない自分など、いらなかった。
真っ白に燃え尽きたような心のまま、勝己はぼんやりと天井を眺める。
虚しい。昨夜、この手に抱いたものは確かにここにあったのに、もうそのぬくもりはない。するりと、どこかへ落ちていった。
いや、もとより手に入ってなどいなかったのだ。はじめから、そんな結果になるはずなど、なかったのだ。
こちらが欲したとはいえ、出久はそれを拒む言葉と仕草をみせていた。
持ち前の狂気じみた救助精神で、出久が勝己を受け入れたから、変な錯覚をしただけだ。
身体が鉛のように重い。今後のことを考えると、もっと重くなっていく。
だが、出久をあのままにしておくわけにはいかない。
きっと勝己から出久は逃げるだろう。ならばどうやって捕まえるか。
そんなことを考えていると、寝室の扉がなんの前触れもなく開いた。
「っ、!?」
あまりの驚きに、飛び起きるころもできぬまま勝己は固まった。
静寂の中、寝室にはいってきたのは、ひどい顔をした出久だった。勝己の貸したシャツとハーフパンツ姿で、立っている。
散々に泣いたせいだろう。瞳は腫れ、あからさまに顔色が悪い。
扉を閉めて、ひょこりひょこりと、おぼつかなく歩く様子からみれば、腰か足か――どこか痛めてしまったのかもしれない。
「デク……」
ようやくそれだけを発した勝己を見下ろすように、出久がベッドの脇に立つ。
「――トイレ、借りたから。あと、お水もらった」
「お、あ、ああ……」
枯れた声でそう告げて、隣にもぐりこんでくる出久に、なにもいえない。
そのまま身を横たえた出久が、じっと勝己を見上げてくる。
薄暗い寝室の中で、大きな緑色の瞳がわずかに煌めいてみえる。
それは、ここにいるから、と告げていた。
自分勝手な感情で無理を強いた相手に対し、する瞳ではない。本当にこいつは馬鹿だ。
勝己の瞳からどうしてだか勝手に溢れてきた涙を、のばされた傷だらけの手が受け止める。
元気づけようとでもいうのだろうか。出久が弱々しく瞳を細める。その淡い笑みに、心が震えた。
勝己は寄り添うように身を横たえて、出久をその胸に穏やかに招き入れた。
ゆるりと回されてきた腕が、あたたかい。
出久の肩が震えている。熱い雫が、胸を濡らすのがわかる。
勝己の目からも、とめどなく涙があふれていく。
こんな愚か者たちのを祝福するものなど、きっとこの世に誰もいないだろう。
だが、今ならば、この世すべてに受け入れられずとも、いいと思った。
今ここに二人一緒にいることが、すべてだった。