星の瞬きさえ聴こえるような静かな夜。
一人で住むには十分な、手入れの行き届いた小さな家。
身じろぎする度に、かすかにきしむ古い寝台。
そこに腰掛け、肩を抱かれたままティアはじっと恋人を見上げていた。
金の髪がわずかに揺れる。左右色の違う瞳は優しく綻び、口元は緩やかな弧を描くように結ばれている。
何がそんなに楽しいのだろうか。
だが、それを問うことはティアにはできなかった。
穏やかな微笑を浮かべながら己の髪を弄んでいたウルの長い指が、つっと頬をすべって顎を掬ったから。
そうして当たり前に、ごく自然に降りてくる唇を視界を閉ざして受け止める。
そういえば、これ何度目のキスなんだろ……?
中毒性のある柔らかな感触に夢心地になりながら、そんなことを考える。
やがて、目を伏せたまま離れていくウルをわずかに開いた視界で見送って、ティアは甘い息を零した。
つい数瞬までティアを求めていた部分が微かに動いて、その合間から覗いた赤く濡れた舌先が満足そうに下唇を舐めた。
間近で見るその色気のある仕草に、ティアの頬が火照る。
「何を、考えているのですか?」
「ひゃっ!」
切れ長の瞳が開く。その妖しいまでの美しさに見惚れる間もなく、滑らかな動作でウルはティアの首筋に噛り付いた。そのまま、雪崩れ込むように寝台へと押し倒されて、ティアは小さく声を上げた。
「いけませんね、恋人の時間に他のことを思うなんて無粋ですよ?」
「ウ、ウルとのことだから別にいいでしょ?」
圧し掛かるウルの胸元をか弱い力で押し返しながら、ティアは慌てて言い訳をする。
「私のことですか?」
「んーと……」
厳密にいえば、ウルのことではない。ウルと自分との間で交わされた口付けについて、だ。
素直すぎるせいで、即答できず眉をわずかに寄せたティアに、ウルは綺麗な笑顔で迫る。
「ティア?」
覗き込むウルの強い視線から逃れるように、ティアは目を伏せた。そして、真っ赤な顔で考えたことを口にする。
「ウルと、キスするの……これで何回目かな、って思っただけだよ」
「ああ、そんなことですか」
くすくすとウルが笑い声を零しながら、ティアの髪を優しく梳いた。
「そうですね。これで何回目と、覚えていたときもありましたが……」
数えてたんですか。
思わず心の中で突っ込んだティアには気付かず、ウルはうっとりと目を細めて続ける。
「でも、そんなことに意味などないでしょう? 回数なんて問題じゃありません。どんなときにどんな風にどんな想いをこめたのか。それが一番大切なことだと、私は思います」
世界が創造されたときからずっと預言書とともに在り続けてきた精霊は、ティアには想像もできないほど歳経ているはずなのに。知識深く、経験だって人間であるティアよりもずっと多いはずなのに。なんだかその表情と口調は、夢見る少女のようで ――いやこの場合は青年となるのか。
ティアは、声を転がし楽しそうに微笑んで頷く。
「うん、そうだね。私も、そう思うよ」
ウルの首に腕を回して、甘えるように鼻先を擦り寄せる。
「ウルの枷が解かれて、恋人になって。あの丘ではじめてキスして……。それから積み重ねてきた想いを、回数で判断するなんておかしいよね」
今度はティアがうっとりとしながら、ファーストキスの思い出に浸りながらそう言うと。
「え?」
ウルのきょとんとしたいつもとは違う声に、違和感を覚えたティアは「ん?」と眉を顰めて身体を離した。押し倒されたまま見上げたウルは、ぱちぱちと目を瞬かせている。
そして。
「ああ、そうか、そうですね。初めてはあの丘ということになるんですね」
ふむふむ、と一人納得して頷くウルが、顔を寄せてくる。それを、その頬を両手ではさんで阻止して、ティアはじっと青と赤の瞳をみつめた。
「えっと……ちょっと悩んだっぽい、その間はなあに?」
なんだか嫌な予感が走り抜ける胸を宥めつつ、極力優しく穏やかに問いかける。
にっこりと、見るものすべてを魅了するような好青年の笑顔でウルは言う。
「恋人同士となってから初めてのキスのことでしょう? ならば、ティアの記憶が正しいといっているのです」
……なんだろう、この言葉遊びに似た会話。そして、「恋人同士として」という部分がやたらと強調されて聞こえたのは気のせいか。
ひく、とティアは頬を引きつらせた。まさかという思いと、ウルならやりかねないという思いが、流星のごとき速さでティアの心の中を行き来する。
「ちょ、ちょっと待って」
ぐい、とウルの顔をさらに力をこめて押し返す。対抗するように、ぐっとウルが圧し掛かってくる。ぎりぎりと力を拮抗させながら、ティアは問う。
「私たちのはじめてのキスって、あのときだよね……?」
確認するティアの言葉は、そうであってほしいという願望も含まれている。
が。
「いいえ?」
ウルはあっさりと、その願いを切って捨てた。
「私が最初にティアに口付けたのは、大会の3日前になります」
「……!?!! 私、そんなの知らないよ!?」
「それはそうでしょう。ティアはぐっすり眠っていましたから」
つまり、眠るティアに対しウルは黙って口付けたということ。
そんなちょっとした記憶を語るように。そして、さも当たり前だといわんばかりの真面目な顔で、とんでもないことを言うウルに、ティアの思考が真っ白に弾けとんだ。
「ど、ど、ど、どうしてそんなことしたのっ」
思わずきつめの口調で問いただすと、ウルは小さく首を傾げた。
「どうして、といわれましても……」
うーん、と小さく唸って考えて。
「ティアが可愛らしかったから、でしょうか」
「!!」
他愛もない理由。だが、気付かぬうちにファーストキスを奪われていたティアにしてみれば、それは理由になりはしない。
口をぱくぱくさせているティアに対して、ウルは微笑みを崩すことなく思い出を口にする。
「それにあの頃は、ティアはやたらと街の人たちにプレゼントしたり、話をしたり――ずいぶんと仲良くしていたでしょう? 嫉妬したんですよ」
当時はよくわかっていなかったのですが、と続けたウルの瞳が細くなる。その頃のことを思い出したのかもしれない。危なげな光が浮かんでは消えていくのがちょっと怖い。
「だから、眠る愛らしいティアを一瞬だけでも自分のものにしたくて、口付けました」
草原に咲いていた花が可愛らしかったから、摘んだのだと ――ただそれだけなのだと言わんばかりである。悪びれることもない。
そしてウルは自分の顔からティアの手を引き剥がし、寝台へと縫い付けて笑う。
「こんなふうにね」
僅かに濡れた音を立て、ティアの唇が奪われる。ティアの知らぬ夜にも、こうされたのかと思うと眩暈がしてくる。
「やっ……! ん、もう、待って、待ってってば!」
そのまま、胸元に顔を滑らせようとしたウルを大きな声で制止する。行為の進行を妨げられて、ウルがわずかに眉を寄せた。
「その、一回だけだったんだよね……?」
「……」
恐る恐る問いかけたティアに、笑顔と沈黙をもってウルは答えた。
知らない間にどれだけ口付けられていたのか、考えることに意味などないような気がしてきた。
「眠るティアから頂いたものは、ちゃんと覚えていますよ」
そう言いながら微笑むウルはとても妖艶だ。ティアは彼の発する雰囲気に飲まれてしまいそうになる。
「……そ、そんなにしてたの……?」
「はい」
それだけ勝手な振舞いをしていたウルもどうかしているが、まったくもって気付かなかった自分もどうかしている。あまりのことに脱力してしまったティアに、ウルはもう一度口付けた。
それは慣れた仕草と、馴染んだ感触。
ウルと陽だまりの丘で口付けたとき、あんなに心地よく思えたのは、特に何の抵抗も覚えなかったのは。むしろ安堵さえ覚えてしまったのは――もしかしたら、こうして知らぬ間に慣らされていたせいかもしれない。
すっかり息のあがったティアの表情をひとつ漏らさず楽しむように、ウルは熱い視線を注いでくる。
「秘め事のようなキスもよかったですが、こうしてティアの反応を目にすることができるほうが、やはりいいですね」
「~~~っ」
懸命にウルを睨み付けるものの、すっかり涙目になっているティアの瞳にそんな力などまるでない。そよ風が吹いたくらいにしか感じていないのだろうウルは、今度は縫い付けたままのティアの手のひらへと唇を落とした。
「まあ、あなたをむざむざ誰かに渡すことなんてありえませんでしたし。問題ないでしょう?」
「大有りだよっ」
くすぐったさに身を捩じらせながら、ティアは最後の気力を振り絞る。
「だ、だって、そんな……私の知らないところで、そんなことするなんて!」
じたばたと手足を使い全身で暴れだしたティアを、なんなく長い腕と足で押さえつけ、ウルはティアの瞳を覗き込んだ。
「卑怯だと思いますか?」
「卑怯っていうか……! 私がどんな想いで初めてのキスをウルにあげたと思ってるの?」
正確にはティアにとっての「初めて」であってウルにとってはそうではない。
自分の意識のないうちにキスをされていたことも問題だが、ウルとはじめてキスしたという記憶が実は違っていたというのも問題だ。
失敗しないか不安になってドキドキした心臓の痛さとか、ウルが好きで胸を締め付けられたときめきやらその他諸々、いろんな乙女の純情を返して欲しいくらいである。
憤るティアを宥めるように、ウルは戒めを優しいものに変えて、怒りと羞恥に染まった小さな耳に囁く。
「私たちの、初めての口付けはあのときですよ」
言い切る言葉を紡ぐ言い聞かせる声には、真摯な響きが宿っていて。思わずティアは喉を鳴らした。
「二人の心が結ばれて、初めて交わしたもの。ですからティアの記憶が、真実なのです」
ティアは絡んでくるウルの指先に、桜色の爪をもつ指を組み合わせるようにして応えながら、ウルの言葉に耳を澄ませた。
「ティアだって。私からの口付けを待つティアの姿に、どんなに心が震えたことか。触れたところから変わってゆくあなたのぬくもりが、どれほど愛しかったことか」
知らないでしょう? と、続けられてティアは吐息を漏らしながら頷いた。
「あれほどまでに、自分という存在がこの世界に生まれたことに感謝したことはありません。とても幸せだと、思いました――そのすべてが、私にとって初めての経験でした」
ティアは観念したように全身から力を抜いた。なんだかもう、どうでもよくなってきた。そんな風にいわれて、これ以上なにが言えるのか。
考えてみれば、他の誰かだったらただじゃすまさないところだが、ウルなのだ。自分の大好きな、恋人なのだ。そこまで怒ることでもないような気がしてきた。
「でも……言ってくれれば、よかったのに」
好きだからキスしたいと、恋人になりたいのだと、もっとはやく告げてくれていれば、秘密を重ねる必要なんてなかったのに。
やっぱり、ちょっとだけウルが悪いと思い直して、ティアは横を向いて視線を逸らす。
そんな様子に、ウルが小さく笑った。
「初めての恋に戸惑う男心というものも察してください」
目の前にさらされた、ティアの柔らかな頬に唇を触れさせて、ウルは言う。
「ですが、黙っていたことは申し訳ありませんでした。それから、ティアの気持ちを考えていなかったことも」
ウルからの懺悔のような謝罪の言葉。それを聞いて、心が軽くなる。
「ううん、もう、いいよ。べつに嫌ってわけじゃないし、むしろウルでよかったと思うし……」
瞳を伏せて、赤い顔でぽそぽそと語るティアからようやくでたお許しに、ウルがほっと安堵の息をついた。
「ねえ、ティア。これからは、もっと二人一緒の思い出を増やしましょう」
なにもかも――みるものきくものかんじるもの。すべて。
交わす想いさえも二人だけのものであるように。お互いだけを、みつめていたい。
それはティアも望むこと。
だから、ウルへと向き直る。ふんわりと蕩けるように微笑む。
「うん……あんな秘密はもうなし、だよ?」
「はい」
額をあわせてくすくすと笑いあい、視線を絡ませた後。
二人は今宵四度目となるキスをする。
そうすれば、ゆっくりと部屋に甘やかな空気が満ちていく。
相手へと贈りたいのに、自分さえも溺れてしまいそうなほどの愛を口付けに添えて、ティアはウルの背へと縋り付いた。